ライザップ急成長を陰で支えた男が、起業の先にみるビジョンとは?(前編)

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Profile
プロフィール
氏名 市川航介
出生年 1983年3月20日
略歴 大学卒業後、PR会社の(株)ベクトルに入社。その後、統合型マーケティングを行う(株)インテグレート・面白法人カヤックを経て立ち上げ直後のRIZAP事業へ参画。経営企画担当として、事業急拡大期において中心となって関与。2017年から上場子会社へターンアラウンドを担って出向。2018年末に独立し、2019年1月”お役立ち事業創造スタジオ”ジギョナリーカンパニー株式会社を設立。様々な業種を経験した現場ベースの視点・PRの発想・経営の視点を組み合わせた事業開発を得意とする。
Interviewer
渡辺大介
渡辺大介

ベクトル、カヤック、ライザップなどの注目企業でキャリアを積み、ライザップでは初期からの急成長を陰で支え続けた男、市川航介。そのプロフェッショナルが歩み始めた新たな起業家としての道とは?

—【聞き手:渡辺大介、以下:渡辺】本日はよろしくお願いいたします。さて、さっそくですが、THE KEYPERSONでは、キーパーソンとして活躍する方の人生を振り返り、読者の方にビジネスや人生のヒントになる話をお伝えするという趣旨のメディアですので、幼少期、学生の時から遡って、市川さんのことを色々とお聞かせいただきたいと思います。

【話し手:市川航介(敬称略)、以下:市川】はい、よろしくお願いします。

子供の頃は運動も勉強も苦手でコンプレックスが強かった

【市川】出身は東京なんですが、2歳の頃に父親の仕事の都合で大阪の豊中市に引っ越し、小学4年生の頃まで大阪で過ごしました。父親は製薬メーカーでMRをしていたので、毎日帰りも遅く、土日は接待ゴルフとかなので、あまり家にいなかった印象です。小学4年生の時にまた転勤で今度は神奈川の平塚に引っ越してきました。

【渡辺】結構引っ越しの多い、子供時代だったんですね。引っ越しのときは、友達とかすぐにできましたか?

【市川】最初はやっぱり苦労しましたね笑。慣れるまで半年くらいかかりました笑。もともと、勉強も運動もそんなにできる方ではなったのでコンプレックスも強く、自分に自信があったタイプでもなかったので。

子供の頃は、ドッチボールとか野球、ファミコンとかで遊ぶ普通の子でした。小学生の頃は、テニススクールに通ってましたね。結構本気でプロになりたいとかは思ってたんですが、週1スクールに通うくらいしかしてなかったので、全然努力は足りてなかったんですけどね。 でも不思議なことなんですが、小学生の時の卒業文集を読み返してみると、50年後までには社長になるって書いてたんですよね。この頃は、起業とかのイメージはなかったんで、どちらかというと出世して社長になるみたいな形だったのですが。何で社長になりたかったかというと、人に命令されたりして自分のペースでやれないのが好きでなかったからなんですよね。社長になって偉くなったら、命令されないしいいかなーという単純な発想です笑

一つのことにしか集中できない中高時代

【渡辺】中学以降はどういう感じに過ごしましたか?

【市川】中学は、勉強も部活も特にせず、ひたすら遊んでいましたね。友達と放課後に男女混じって喋るみたいな。なんか、すごい青春って感じです笑。中1と中2の時に彼女ができたんですが、なんか周りにチャカされて恥ずかしくなってすぐ別れちゃったりしまいた。甘酸っぱいですよね笑。

この時は、テニスのスクールにも継続して通っていたりもしてたんですけど、情熱を持って取り組んでた感じではなかったです。勉強も全然してなかったので下から数えた方が早いくらいでした。そろそろ受験を意識しだしたのが中2の途中だったんですが、その頃から勉強をちゃんとやりだしました。やる前は真ん中と下の方を行き来するみたいな感じだったんですが、やりだしてからは上位10%には入るようになりました。結果、公立の学区のトップ高に無事合格することができ、これが「やればできる」っていう成功体験の1つ目でしたね。

【渡辺】高校に入ってからは、そのままの勢いで成績上位キープした感じだったのでしょうか?

【市川】それが、高校に入ってからはまた全く勉強しなくなってしまって、順位は瞬く間にさがっていきました笑。というのも、高校にはいってから、今までスクールに通って週1くらいしかしてこなかったテニスを本格的に部活としてやり始めたんですね。僕は、どうも何かをやりだすと一つのことに集中しすぎるみたいで、高校時代は部活に全てを捧げていた感じです。 テニスではそれなりに結果を残すことができ、地区大会では結構いいところまでいくことができましたし、2年からは部長を務めることになりました。

【渡辺】そのころからも、部長として持ち前のリーダーシップを発揮されていた感じでしょうか?

【市川】いや、それが全然笑。

高校時代は性格的にかなり我が強くて頑固だったんですよね。「自分が主役で回りは引き立て役」みたいな意識があって。だからあまりいい部長じゃなかったと思います。こういった部分はその後も結構残っていて、後でお話ししますが社会人になってからようやく変われた部分でもあります。

高校3年までは部活漬けで、3年の夏になって、「そろそろ受験ヤバイ」ってようやく思い出しました。遅いですよね笑。 その当時は、偏差値でいうと大体30くらいだったと思います。で、志望校どうしようと考えたんですが、うちの家系は早稲田大学出身の人が多かったので、私も自然と大学は早稲田だって思っていました。しかも、「早稲田=政経」というところもこだわっていたので、中々ハードルの高い受験になりました。

【渡辺】それはなかなかのハードモードですね笑。どれくらい勉強したんですか?

【市川】 毎日12時間くらいは勉強していました。リアルビリギャルって感じでしたね。 勉強方法としては、塾とかはあまりいっておらず、ひたすら問題集を解き続けるみたいな感じでした。1月くらいには、その成果もあって偏差値的には60くらいになって、合格可能性もあるラインくらいになっていたんですが、結果的には不合格。 あまりにもショックで、合格発表の掲示板に番号がなかったときは、その足で江の島に行って、2月の寒空の下で1時間くらいぼーと海を見てました笑。これが人生で最初の大きな挫折ですね。でも、立ち直りが早い性格なので、1週間くらいで切り替えて来年に向けてまた勉強を始め、4月からは予備校に通い始めました。

予備校では自分を失い一番つらかった

【市川】予備校では、入学前からちゃんと勉強していたのが功を奏し、ずっとトップクラスの成績をキープすることができました。でも、実はこの時期が一番人生の中でつらかったんですよね。というのも、このころは自分が「何者でもない」ということに対して非常に不安を感じていました。例えば、定期券を買うにしろ所属のところに、何も書くものがないんですよ。あと、同級生がみな大学に入ってサークルとかをしている中で自分だけがただ予備校と家とを往復するだけの生活をしていて。これが一番辛かったですね。

【渡辺】たしかに、何者でもないのはきついですよね。その時は、気分転換とかはどうしたりしてたんですか?

【市川】ほとんど、ラジオを聞いてましたね。深夜もずっと勉強だったので、ラジオ、しかもAMを聞いてました。オールナイトニッポンとか。

大学入学から就職活動は?

【渡辺】1年の予備校を経て、早稲田大学の政治経済学部に無事入学された後は、やっぱりまた勉強しなくなりましたか笑??

【市川】もちろんです笑。大学は、勉強も全然せずにテニスサークルばかりでした。所属したテニスサークルは、練習も飲み会も毎日頑張る、ってスタイルのところだったので、毎日終電ギリギリまで。親にも「テニスさせるために大学通わせてるんじゃないぞ」って怒られたりもしてました。

【渡辺】お聞きしてる感じだと、中学~大学にかけて友人や部活などで非常に交友関係を密にしてるなーという印象だったのですが、今でもみなさん仲がよいのですか?

【市川】それがそうでもないんですよね。大学時代までの友人で今でも会ってるのはあまりいなかったりします。所属するコミュニティが変わると話の感覚や話題が変わってきて自然と疎遠になっていくんですよね。あまり人間関係には執着しないタイプなのかもしれませんね。

【渡辺】就職活動はどういう感じでしたか?

【市川】就職は、最初から業界をPR会社に絞ってたんですよね。PR会社は、広告代理店とちがって、「広告枠」に縛られずに自分の動き方次第で色々なことができるのではと思ったからです。そこで、いろんなPR会社を見てたんですが、PR会社が結構真面目というか普通のところが多かったんですよね。その中で、かなりぶっ飛んでいたのが入社を決めたベクトルです。ベクトルの西江社長の話を聞いて、この人はすごいなーと思って入社を決めました。今では上場したベクトルですが当時は30人くらいしかおらず、かなり小さい会社だったんですが、即決でしたね。なので4月くらいには就職活動は終わっていました。

がむしゃらにくすぶり続けた20代のビジネスマン時代

【渡辺】入社されてからはやはりすぐ結果出されてたのでしょうか?

【市川】それが全然そうでもなかったんですよ。最初は新規営業の部署に配属されたんですが、全然アポが取れなくて。今振り返ってみると、「自社の商品に自信を持っていない」「お客様の立場になっていない」といわゆる営業で課題になること全てが当てはまっていたんだと思います。加えて、「絶対に結果を出す」という覚悟みたいなものもなく、典型的な”ダメな営業”の思考と行動をしていたんだと思います。

【渡辺】市川さんでもそういう時期があったんですね。それでは、結果を出し始めた手ごたえはどのあたりからだったのでしょうか?

【市川】私は、ビジネスマンとしてはかなり遅咲きのほうだったんですよね。2社目のインテグレートの時に少し手ごたえを感じ始めましたが、カヤックではあまりフィットせず。RIZAPに入ってから劇的に変わったと思います。入ったのが29歳なんで、20代のうちは仕事はがむしゃらにしてましたが結果とかに繋がっている感覚はRIZAPに入ってからですね。

【渡辺】ベクトルでの印象的な仕事はどういったものでしたでしょうか?

【市川】印象に残ってるのは、経産省の外郭団体でやっていたドリームゲートというプロジェクトの仕事ですね。このドリームゲートでは、ビジネスプランのプレゼンイベントを各地域ごとに地区大会をやり、勝ち残った人が東京での全国大会に出場できるというものです。このプロジェクトでは、各地の新聞社やテレビ局に対してイベントの露出を狙って全国飛び回っていました。福岡に行って、翌日大阪に移動して、最後は名古屋みたいな・・・笑。かなりめちゃくちゃな日程で出張しまくってましたが、この時にいろんな起業家に会ったのが、自分の中での起業への関心を高めさせてくれました。

ベクトルには、3年くらいいまして、そのあとインテグレートという会社に転職しました。そこは、代表が日本にキシリトールを広めた藤田さんという方で、そういう新しい素材をPRの手法を組み合わせてマーケティングをして広げていくようなことをしている会社でした。この時も、入社当日は小さいマンションで10人くらいの会社だったんですが、仕事をしていた2年半の間で100人くらいの規模になりましたね。この時は、広告代理店さんの案件をメインにやっていて、「明日までに資料を出してね」みたいな割とハードな仕事をしていましたね笑。

インテグレートの仕事で面白法人カヤックの仕事に関わっていて、今は無くなってしまったんですが、「こえ部」というサービスのプロモーションをする案件に関わりました。この時には、プロモーションのために「モテ声」というキャッチフレーズを作り、渋谷のカフェとタイアップして「モテ声カフェ」を1ヶ月の間やりました。また、「VQチェッカー」といういい声を判定できるアプリを作ったりもしたんですが、こちらはアップルストアのランキングで1位を取ったりもしましたね。

カフェでのプロモーションは、声優の卵をアルバイトで雇って「モテ声0円」を頼むと、好きなフレーズを耳元で囁いてくれるということをしたんですが、テレビでもたくさん取材してもらい、2〜3時間待ちの行列ができるくらいに話題になりました。 その縁もあって、カヤックに移籍したんですが、カヤックではそのままこえ部のマーケティングとディレクターをしてました。途中から事業が縮小の方向になっていっていたので、他の受託事業のディレクターもしていたりしたんですが、やはり自社サービスがやりたいという気持ちがあったので、その中でRIZAPに出会ったんです。

RIZAPで花ひらいたビジネスマンとしてのキャリア

【市川】当時のRIZAPは、まだ2、3店舗くらいの状態で、本社側も10人くらいしかいませんでした。トレーナーも全部で30人くらいでしたね。まだ、一般的には全然知られてなくて、パーソナルトレーニングのジムのうちの1つくらいのところでした。

【渡辺】最初はどういう業務をされたんですか?

【市川】RIZAPでは、ゲストとトレーナーが毎日食事報告をするんですが、その部分で会員のアクティブ率を上げて、データを蓄積できるようにアプリ化を進めました。また、プロテインとかサプリとかの販売を通販でやりたいというニーズがあったためECをつくったりもしてました。これらの業務は、入社時に予め話し合っていた内容だったのですが、これ以外でも事業全体の数字やプロジェクトの管理方法などに対しても色々口を出していったりしていると、仕事がどんどん増えていき、いつの間にか全体を見る経営企画的な業務をやるようになっていきました。

【渡辺】まさに、仕事は自分で作るものだ、みたいな状態ですね笑。

【市川】はい笑。こうしたことをいろいろやっていく中で入社時点と比較すると100倍くらいの規模にまで成長させることができました。

【渡辺】まさに、成長請負人みたいな感じですね

【市川】もちろん、みんなで協力できたからですが。事業規模としては大体100倍くらいの圧倒的な成長を体験することができたんですが、こうした事業が急成長するフェーズで、どういったことが起きるのかを体験できたのが、非常に良いところでした。どうやったら数字が伸び、成長の中で人間関係などでどういう問題が起こるのか、いわゆる成長の歪みのメカニズムが分かりました。

【渡辺】そのころのRIZAPのメンバーはどういう方々でしたか?

【市川】初期の頃のRIZAPのメンバーは、みんな頑張れる人たちでしたね。真面目にとことん頑張れることができる。事業のメッセージをちゃんと理解していて、社長ともちゃんと議論しながら事業を進めることができていて、非常にいいチームだったと思います。

【渡辺】RIZAPへの転職はどうやって決めたのですか?

【市川】 転職エージェントからの紹介で知りました。フィットネスクラブにも行ったこと無いし、スポーツ業界も全然詳しくはなかったんですが、これまでこえ部とかで月額数百円みたいな単価のビジネスをしていたなかで、RIZAPの30万円という単価の違いに衝撃を受け、ビジネスとして行けそうだと感じたのが入社を決めた理由です。

【渡辺】 入社後の印象はいかがでしたか?

【市川】入って一番すごいなと思ったのが、チームが皆すごいピュアで、ゲストの結果を出すことを最優先に考えていることですね。まさに、「結果にコミット」が一番の重要な価値観として浸透しているところでした。サービス自体も、研修のやり方もここが徹底されていて、売上や利益よりもゲスト第一という姿勢を貫いていましたね。これは僕にとっては、衝撃でした。

これまで、事業をやっていても、口八丁手八丁でなんとかうまくやって来れたという感覚を持っていたんですけど、それだけじゃダメなんだなと痛感しましたね。一番印象に残っているのが、トレーナーの研修用の動画の制作のディレクションをした時の話です。

研修の動画といっても、単なる勉強用の動画では面白く無いからということで、活躍していたり、マインドがいいトレーナーに密着する動画を撮ることにしたんですよ。トレーナーの行動や言葉を伝える情熱大陸みたいなPoleStarという動画です。北極星のように道標になるようにという意味でそうつけました。この撮影の際に、現場のトレーナーが本当に一生懸命でピュアなんですよ。思わず撮影してる時に心を打たれて号泣してしまいました。

彼らはまだまだ環境が整っていない中でも、ゲストに寄り添いながら一生懸命やっているんです。一方で、僕ら本部の人間は彼らとちゃんと寄り添えているのか、自分の考えを押し付けていないかと自問自答しました。

【渡辺】仕事の価値観が180度変わった瞬間だったのですね。

【市川】はい、まさしく。ここをきっかけに、相手とより良く仕事をするために自分がやれることは何か、を非常に考えるようになりました。そうすると、メンバー同士の衝突や軋轢がどんどん減っていき、仕事がうまく回り出したんですよ。入社当初は、中途入社なのに、これまでやってきた企画とかに対して遠慮なくズバズバダメ出しとかもしてたんですよね笑。後で聞いたんですが、他の社員からはなんかムカつく意識高い系の人来たなーと思われてたみたいです笑。それが、考え方を変えて行動していったら、うまくいくようになり、入社後3〜4ヶ月でちゃんと結果を出せるようになっていきました。

RIZAPには5年ほどいたのですが、ライザップの事業を見つつ、新規事業の予算管理などもやるようになり、何かあったら市川に相談しよう、みたいなポジションになることができましたね。でも、一方で居心地が良くなりすぎたため、このままでいいのだろうか、と危機感を感じ出しました。

そこで、転職活動もしたんですが、結局経営陣と話してグループ会社のぱどに役員として出向することにしました。ぱどは買収で子会社化してたんですが、業績があまり良くなかったので、ターンアラウンド全般をやるポジションでした。とにかく、経営企画から営業面のプロジェクトの立て直し、全社システムの作り直し、採用など殆どの業務をこのとき携わりましたね。ぱどは苦戦はしていたけど、営業マンがたくさんいて、ちゃんと仕組みを動かせたら一定の売り上げはでるポテンシャルのある会社だったので、RIZAPで学んだ人との関わりかたを駆使して、一定の成果をあげることができました。

通常、親会社から出向で役員が来た場合って、現場からはいけ好かないって思われると思うんですよね。それを克服するために、自分の考えを押し付けるのではなく現場がやりたいと思っていることを形にしてあげる、というスタンスでマネジメントをしました。彼ら自身のアイデアを、ブラッシュアップしてあげて、数字のロジックとか経営的なフォローとかをしてあげる感じです。こうして、ぱどでは1年半くらい役員をしたんですが、その中で起業につながるアイデアも浮かんだため、独立して起業を決意しました。

後編へ続く