私は21年間のプロフォトグラファー生活で30,000の人を撮ってきた。その人間の“生きた証”を撮りたい。そう考えてシャッターを押してきた。そして、残念ながらそのやり方しか私は知らない。目の前にいるのは三崎優太。彼は不思議な場所に立っていた。現実でありながら、少し浮いた場所。「幸せになりたい。とは全く思わなくなりました」と彼はインタビューで語っていた。私は彼に触れたかった。彼の孤独や寂しさのようなものに触れたいわけではない。彼という人間が”生きた証”を撮りたかった。
私は彼に言った。「専属のフォトグラファーにしたくなるくらい、いい写真を撮ります」
彼は無表情だった。私はカメラを向けた。彼は自分がよく見えるような写り方を心得ている。その型を外す。”生きた証”を撮るためだ。「いつものフォトグラファーとは違うぞ」と思わせる。私は分裂した。”写真を撮る私”と”撮影を組み立てる私”だ。サッカーでいうところの選手と監督のような関係だ。写真を撮る私は完全に何かが憑依している。レンズ交換の際も何度も失敗してガシャガシャという音を立てている。彼は少し困った顔をした。これがわざとなのかわざとではないのかは、私にはわからない。ただ、その一連の様子を冷静に観ている自分がいる。さらに踏み込んだ。シャッターを切りながら、最後に辿り着く一枚だけを見ている。次に電気という電気を消した。真っ暗な部屋で窓際にライトボックスをセットし、窓を開けた。冷たい風が入り込んできた。暗闇の中、ライトボックスのハロゲンランプのオレンジ色の光だけが彼を照らす。私は彼に5年後の三崎優太をイメージしてもらった。レンズ内に5年後の三崎優太がいる。風が流れる。私は消えた。彼が対峙しているのは私ではなく5年後の三崎優太だ。カシャ…。
撮影をしたのが2020年10月22日だ。今日は2020年11月26日
最後のシャッターがどう切られたのかは、私には記憶にない。これがその写真だ。
数多くある他の三崎優太の写真とこの写真を見比べてほしい。違いがわかるだろうか?
これが本来の三崎優太だ。彼はしっかりと”今”に立っている。
三崎さん。写真を撮らせてくれて本当にありがとうございます。私はあなたの人間的魅力を強く感じました。機会があればまた撮らせてください。
原哲也