「写真で人を救いたい」――25年の軌跡を経て見つけた原哲也の使命

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Interviewee

STUDIO流 写真家 / セルフフォトスタジオ ラシク ショップディレクター

原哲也

プロ歴25年。庵野秀明さん、本田圭佑さん、滝川クリステルさん、佐藤健さんなど15000人の人物を撮影。名古屋の出版社のスタジオで10年ファッション誌、カルチャー誌、グルメ雑誌等をカメラ部のリーダーとして撮影。退社後、フッション写真家、丹羽俊隆(niwa.)に師事。その後、FBのいいね!数が2000万以上ののTokyo Otaku Modeにジョインし、EC、メディア、広告等のヴィジュアル面のディレクション、撮影をチーフフォトグラファーとして担当する。プロ歴25年の経験と知識を活かし、現在は映画監督、スポーツ選手、俳優、ミュージシャン、ビジネスパーソンなど多くの著名人を中心に撮影しながら、セルフフォトスタジオ「ラシク」を立ち上げ、写真撮影の楽しさやその魅力をもっと多くの人に届ける活動をしている。


被写体の本質を写し出す写真家として、25年以上のキャリアを誇る原哲也氏。名古屋の出版社のスタジオで撮影技術を磨き、多くの雑誌や広告撮影に携わりながらも、自らの作品撮りにも注力。その作風は「一瞬の感情や内面の輝きを引き出す」と評価され、写真家としての確固たる地位を築いている。また、同氏の人生は、双極性障害やADHDと共に歩む日々であり、これらの特性と向き合う中で培われた洞察力や共感力が、写真家としての独自の視点を形作っている。特に被写体の核を捉えた作品には、そうした経験が強く反映されている。 現在は、セルフフォトスタジオ「ラシク」を立ち上げ、写真撮影の楽しさやその魅力をもっと多くの人に届ける活動をしている。プロとしての豊富な経験と被写体への深い理解を活かしながら、写真を通じて人々の日常に寄り添うことを目指している。写真と共に生きる原氏に自身の半生を語ってもらった。



※この記事では双極性障害や精神的困難について率直に語られています。辛い場合は無理せず、必要なら「いのちの電話:0570-783-556(10時~22時)」など専門機関へ

自己紹介―写真家・原哲也の原点

—【聞き手:立林、以下:立林】まずは簡単に自己紹介をお願いします。

—【話し手:原 哲也氏、以下:原】岐阜県出身の写真家、原哲也です。写真歴は25年になります。ポートレート(人物撮影)を評価されることが多いですが、スナップ的な作品も撮っています。ただ、風景写真とはまた違うんですよね。例えば、カフェで残ったグラスや、知り合いの子どもの後ろ姿など、自分の心というか、なんていうか魂が動いた瞬間にシャッターを切っています。現在はフリーランスとして活動しながら横浜でセルフフォトスタジオ「ラシク」を運営しています。

—【立林】魂が動いた瞬間を捉える、面白いですね。写真を撮り始めた頃からそのような感覚はあるんですか?

—【原】20代の頃は胸の真ん中に穴が空いている感覚があって、そこが「キュッ」と締めつけられるような時があったんです。その瞬間にシャッターを切っていました。40代になった今はその感覚は薄らいでいるんですが、今は「撮らなきゃ」と思うタイミングが訪れるんです。なんていうか使命感のようなものですね。

子ども時代――「陽」と「陰」の二面性が芽生えた事件

—【立林】子どもの頃はどんな少年でしたか?

—【原】 ADHD全開の子どもでしたね(笑)。そう診断されたのはもっとずっと後になってからなんですけど、例えば物を壊したり、汚くしちゃうんです。習字道具は墨汁溢れたままでカピカピでしたし、鍵盤ハーモニカはいろんな部品が取れまくって僕だけ骨組みのようになってました(笑)。一方、アイデアマンでオリジナルの遊びを考えるリーダー的存在でもありました。でも、小学6年生のときに「おしっこ事件」が起きたんです(笑)。ファミコンのゲームがバグって、それが面白くて、笑いすぎて漏らしてしまい、急いで帰ったんですけど着ていたのが、学校指定の青いジャージだからバレバレなんですよ(笑)。しかも翌日、誰も突っ込んでこない。僕はそれ以来、友達との会話を先読みしてはおしっこの話にならないように、そればかりを気にするようになりました。

—【立林】中学生の時はどうでしたか?

—【原】小学校では学級委員長を務めるほど活発でしたが、中学ではヤンキー文化が流行した事と、思春期のいわゆる性的なことに乗り遅れた僕の立ち位置は中間層でした。6年生の時のおしっこ事件を中学生の時でも引きずり、内向的な部分が強くなりました。「陽」と「陰」この二面性は、今でも自分の性格に影響を与えています。最終的には中3の時クラスのガキ大将に「原ちゃん6年生の時におしっこちびったじゃん!」と授業中に言われてしまい、ずっと気にしていた黒歴史を3年越しに掘り返されるというめちゃくちゃ恥ずかしい思いをしました。今では笑い話です(笑)。

高校時代――進路選びの意味がわからなかった日々

—【立林】高校時代はどんな感じでしたか?

—【原】高校は普通科でサッカー部に所属してたけど運動神経が良くないのもあって補欠でした。陰キャというほどではないけど、やっぱり中学からの流れを引きずっていた部分はありました。それから、周囲が進学や就職に向けて目標を持ち始める中、僕だけ「みんな、なんで急に動いているの?色々知ってるの?意味がわからない」状態でした(笑)。それでも「何者かになりたい」という漠然としたものはあって。推薦で入れる大学に進学しましたが、東京に近いという理由で千葉県の大学を選んだだけで、何を学びたいかなんて考えていませんでした。

写真との出会い――「美しいものが好き」という言葉から

—【立林】写真家を目指すきっかけは?

—【原】大学は中退し、フリーターになっていろんなアルバイトをしていました。いろんな土地で、夜勤のコンビニとか水商売なんかもしました。でも、ADHD全開で、仕事では失敗ばかりでした。ただ、愛嬌があって一生懸命だから、どこででも可愛がってもらえました(笑)。その中で換気扇フィルターを売る営業バイトをしていたとき、コンビを組んだ川島くんに「美しいものが好き」と言ったら「原さん、美しいものが好きならカメラマンになればいいじゃないですか」と言われたんです。その一言が妙に引っかかって、写真なんて撮った事もないのに、翌日すぐに求人誌でカメラマン募集を探しました。名古屋にある写真スタジオに応募し、それが僕の写真家としての第一歩でした。大切なメッセージって意外なところにあるんですよね。

スタジオ時代――失敗だらけの10年間

—【立林】写真スタジオでの経験を教えてください。

—【原】初日から「赤バック紙事件」を起こしました。脚立から落ちそうになり、バック紙を破ってしまったんです。他にも物撮りやライティングが全然理解できず、よく怒られていました。アシスタントなのに先輩カメラマンから、レフ板の角度を指図されて「自分でやればええやん!」とブチ切れたこともありましたね(笑)。「原はパソコンの3m以内に近づくな」と言われるほど機械もダメ。でも、人を撮るのは得意で、同期や先輩からも評価されていました。「絶対僕が一番写真が上手い」という、根拠のない自信がありました(笑)。 スタジオには10年いて、その間に結婚もしましたが、うつ病を発症して人の目が怖くなった時期もありました。コンビニ店員も、ポスターの目にも怯えるようになった頃には撮影で目にピントを合わせることができなくなったりしました。うつ病の影響なのか、交通事故を2回、起こして免許取り消しになりました。名古屋で車に乗れないって致命的なんですよ。それもあって、他のカメラマンと大きな差をつけられました。

—【立林】仕事以外の作品は撮ってたんですか?

—【原】撮ってましたね。周りのみんなは趣味からカメラマンになった人がほとんどなんですが、そういう人って仕事以外ではあまり写真を撮らなくなります。僕はスタートが遅かったのもあって、仕事での不遇さを埋めるように没頭して作品撮りをしてました。一度、小さなカフェで個展も開いたんです。たくさんの人が僕の写真を観に来てくれて、作品撮りに対する思いも強くなりました。

上京――家族と共に始めた新生活

—【立林】東京に出たのはなぜですか?

—【原】挑戦したかったんです。周りの同期からも「原さんの写真はなんか違う」と言ってもらえたり、人物撮影でも評価されていたから。やっていける気がして名古屋のスタジオを辞めて、妻と子どもを連れて上京しました。でも、コネも経験も不足していて、生活は苦しかった。日中は引っ越しのバイト、夜は警備員をしていました。精神的なプレッシャーが大きく、次第にアルコールに依存するようになりました。

双極性障害との向き合い――自分を知るための戦い

—【立林】双極性障害と診断されたのはいつですか?

—【原】東京での暮らしの中、SNSで双極性障害について投稿している人を見つけ、自分もそうなのかもしれないと思いました。それで病院に行って脳を調べたり、いろんなテストを受けて双極性障害だと診断されました。躁うつ病っていうとわかりやすいかな。うつ病はイメージできる人が多いと思うんですけど、本当に危ないのは躁状態のとき。たくさん買い物をしてしまったり、妻にも高圧的な態度を取ったりしました。一方で鬱状態では何もできなくなる。自分をコントロールできないことが本当に苦しかったです。 ADHDと診断されたのもこの頃です。今と違って情報も少ないし僕にはどちらも意味がわからなかった。

—【立林】原さんを大きく変える出会いがあったそうですね

—【原】住んでいたアパートの二軒隣で、カメラ機材を車から降ろしている人を見かけたんです。「カメラマンですか?」と聞いたら「そうだ。」と言ったこの人はファッションフォトグラファーの丹羽俊隆さんでした。すぐに弟子入りさせてもらい、丹羽さんのアシスタントになりました。丹羽さんはとても厳しく、最後は逃げ出すように辞めたんです。でも、写真の撮り方を教えてもらったわけではないのに、辞めた後で僕の写真は格段に上手くなった。丹羽さんの撮る一流の写真に触れたことで、僕の感性が磨かれたのかなと思います。丹羽さんには今でも本当に感謝しています。

—【立林】東京での暮らしはその後どうなっていくんですか?

—【原】結局、稼ぎも無いし精神も不安定で、離婚することになったんです。 離婚して、もう十数年経つんですけど、二人の子どもたちに一度も会ってないです。心から会いたいなと思ってるし、忘れた事は一日たりともありません。もし、いつか娘と息子に会える日がきたら、二人の自慢のパパになれるように人としてもっともっと成長していきたいと思っています。 離婚後のある夜、恐ろしく散らかった部屋で独りでひどく酔っ払っていて、天井がぐるぐると回っていたんです。もう本当に「死んでしまおうかな」って。でも、その時に「僕みたいに生きづらくて苦しんでいる人のために写真を撮ろう」って思ったんです。 離婚の苦しみも、双極性障害とかADHDも含めて。 その出来事は何か啓示的な感じがして、未だにそういう気持ちでいます。

自動車工場時代――カメラは押入れの奥に

—【立林】どのように這い上がったんですか?

—【原】 両親に岐阜の実家に連れ戻されました。僕は覚えていないけど、実家に着いたら倒れて救急車で運ばれたそうです。肉体的にも、精神的にも限界だったんですよね。だけどいつまでも実家には居られない。勇気を出して、愛知の自動車工場の期間工として寮に入って働きました。カメラは寮の押入れの奥にしまい込みました。そこに居たのは半年くらいかな。自動車部品を作る仕事もかなり辛くて、精神的にボロボロでした。

Tokyo Otaku Mode――雷鳴の中の運命の電話

—【立林】その後、カメラマンに戻られたきっかけは?

—【原】 雷が鳴るくらいの大雨の夜、とても悲しいことがあって僕は寮の布団にくるまって泣いていたんです。その時、携帯に着信がありました。「Tokyo Otaku Modeですが、カメラマンを探しています」運命を感じました。東京に戻る決意をしました。この一本の電話が、僕の人生を大きく変えてくれました。Tokyo Otaku Modeに救われました。本当に感謝しています。

再び、東京へ――僕を認めてくれた仲間たち

—【立林】Tokyo Otaku Modeはどんな会社でしたか?

—【原】Tokyo Otaku Modeには8年ぐらいいました。 当時のTokyo Otaku Modeは、もう本当に最先端。IT系のスターベンチャーで勢いがありました。 アジェンダとかKPIとか、僕にとっては初めての言葉ばかり。Tokyo Otaku Modeでは、ECの物撮りや取材撮影をするのが仕事でした。Tokyo Otaku Modeのスタッフはみんなすごく優秀なんです。みんな、有名大学卒だけど、僕だけ大学中退の高卒。 みんな英語を喋れるけど、僕だけ英語は全く喋れない。劣等感を常に感じていました。それなのにいつだってチームの一員として接してくれた。今の僕があるのは本当にTokyo Otaku Modeのおかげだと思ってます。 倉庫の立ち上げでLAに何ヶ月間か行かせてもらったり、アジアを回ってあるアニメ映画のイベントの撮影に行かせてもらったり、今まで経験したことのないようなことをたくさんやらせていただきました。エヴァンゲリオンの監督の庵野さんや、ガンダムの監督の富野さんなど、一流のアニメ監督も撮らせてもらったのもTokyo Otaku Mode時代です。

フリーランスとしての挑戦――被写体に向き合う日々

—【立林】フリーランスになった経緯は?

—【原】Tokyo Otaku Modeの事業にもいろいろ変化があって、Tokyo Otaku Modeを退職しました。そこからはフリーランスになりました。コロナの時は撮影が無くなったり厳しい時期もありましたが、お陰様でなんとかやれています。僕は本当に人に恵まれてるなって感じています。困ってる時に仕事を頂けたり、誰かを紹介してくれたり、感謝の日々です。

—【立林】新たなチャレンジをしたとか?

—【原】フリーになった最初の3年間「どん底撮影」という企画をnoteでやったんです。「僕みたいに生きづらくて苦しんでいる人のために写真を撮ろう」という気持ちから、どん底の人を無料で撮らせて頂いてたんです。僕が撮影した事で「前を向けた」「救われた」ととても感謝をされました。嬉しかったです。あの夜の啓示が形になった活動でした。またやりたいなって思っています。そうそう。ADHDだったり、双極性障害ということも公表し始めたのもこの頃かな。

コーチングとの出会い――写真と共通する「全肯定」の世界

—【立林】コーチングを学び始めた理由は?

—【原】僕は人を撮ることが多いんですけど、その人の本質だったり、その人の全てを撮りたいと思っているんです。その人のマイナス部分だったり、その人の闇に入り込んで、撮るみたいな事もしていた。 ただ、それが合わない人も当然、出てきます。みんながみんなそこまで求めていないんです。そんな時にコーチングの話を知り合いから聞いて、コーチングを学べば、新しい撮影の仕方のヒントになるんじゃないかなって思ったんです。 結論から話すとコーチングは本当に素晴らしかった。なぜかって言うとコーチングって「全肯定」なんですよ。 僕は写真を撮る事は「肯定」だと思っています。シャッターボタンを押す度に被写体を、その瞬間を肯定していることだと思うんですよね。「いいね!いいね!」って。「嫌だ嫌だ」「駄目駄目」って写真はあんまり撮らないですもんね(笑)。

—【立林】コーチングは写真に活かされましたか?

—【原】僕の理想の写真は、僕がいなくなることなんですよね。カメラを持つ僕はいるけど、僕っていう存在が消えて、その人自身が、写真を撮る。僕はそのきっかけになるみたいなイメージです。 だから僕がどう撮るとか、僕がこうしたいとかはあんまり関係なくて。その人が自分でシャッターを押すっていう領域まで、自分の写真の撮り方を持っていきたいんです。 コーチングを学ぶ前の僕はADHDなことが関係しているのか、人の話を最後まで聞けないところがあったんです。だけど相手の言葉を待つ、傾聴する、受け入れるっていうのをコーチングで学んだんです。

—【立林】そして私も原さんのコーチングで人生が変わりました。

—【原】立林さんとの出会いは僕のコーチングのクライアントとしてです。立林さんはとにかくチャレンジ精神があってその急成長に僕が付いていけないほどでした(笑)。初回のコーチングからその効果を感じてくれて、コーチングをするたびにどんどんキラキラした顔に変わっていったのが印象的でした。 シングルマザーで当時、派遣社員の立林さんが、「私もコーチングスクールに申し込みました!」「私、起業します!」って毎回もの凄い挑戦を決断をして、次々に目標を達成していく、僕はその成長をコーチとして伴走していて、本当にすごいなと思うし、尊敬しています。僕のコーチングのおかげっていうのもあるけどね(笑)。

「ラシク」――やっと見つけた居場所

—【立林】セルフフォトスタジオを写真家、原哲也はどう見ますか?

—【原】セルフフォトスタジオ「ラシク」の店名は「自分らしく」からきているんです。 「自分らしく」自分を全肯定する。さっき僕が話した、僕が消えて、その人自身が、写真を撮る。僕の理想の写真にセルフフォトスタジオは近いなって感じました。

—【立林】「ラシク」は原さんにとってどんな場所?

—【原】「ラシク」を立ち上げたことで僕にも居場所ができたんですよ。 今までもどこかに属してたことはあったけど、どこかここは違うなみたいな思いがあったんです。 スタジオにいた時もTokyo Otaku Modeにいた時も。すごく感謝してるし、その時々では僕の居場所ではあったんだけど、なんか自分がそこにいることに違和感がありました。 これは実家に帰った時にも感じるんだけど、自分の居場所だと感じられる場所が今までなかったんです。 どこにいても違和感を感じていました。「ラシク」を作って初めて自分らしくいられる場所ができたなって思っています。 だからこの場所にとても感謝しているし、この場所を大切にしたい。「ラシク」ためにできることは全部やりたい。今は仕事も楽しいし、毎日ワクワクしてます。

未来への展望――写真で人を救いたい

—【立林】これからの展望を教えてください。

—【原】 僕が「僕らしく」居られる「ラシク」には、たくさんのお客様に写真を楽しんでもらえたらいいなって思います。軌道に乗るまではまだまだ苦労もあるかと思いますが、すべてのことには意味があると思っているので今を全力で楽しんでいきたいですね。 双極性障害とか、ADHDとか苦しんできた話をいっぱいしてきたんですけど、僕、今すごく落ち着いています。様々な事柄を経験して、強くなったっていうのかな。僕自身を世界を全肯定できるようになった。 苦しかった時は自分と世界の間に薄い膜があるように感じていて、世界が歪んで見えていました。その歪みを写真に撮ることでバランスを取っていたように思います。ちょっと前の事ですが、写真家の藤代冥砂さんに、僕の写真を観てもらったんです。その時、冥砂さんに「原さんの写真は全部、原さんが写ってるね」と言われました。ちょっとしたショックを受けました。「僕みたいに生きづらくて苦しんでいる人のために写真を撮ろう」あの夜、決心したはずなのに、僕の写真には僕が写っている。 ただ、そのおかげで「人のために写真を撮る」覚悟ができました。 僕は世界の全てを写真で肯定していきたい。「世界は美しい」ということを写真でみんなに伝えたい。僕の写真でみんなを救いたい。救えると本気で思っています。 そのためにも僕は写真の賞を取りたいと考えています。 それは有名になりたいからではなくて、一人でも多くの人に僕の写真を見てほしいから。 一人でも多くの人を救いたいから。 それが僕の使命。これからも誰かのための写真を撮り続けます。

■原哲也のお仕事「原哲也ポートフォリオ

■原哲也の作品「原哲也Instagram 

■【ラシク】横浜最大級セルフフォトスタジオ15分撮り放題 「「ラシク」


【クレジット】
取材・構成/立林ゆう子 撮影/原哲也 立林ゆう子 企画/大芝義信

Company

セルフフォトスタジオ「ラシク」

神奈川県横浜市中区石川町1丁目13 ローマステーション 301

自撮りスタジオ

https://lashiku.studio/