バチェラー司会、ハリウッド俳優の坂東工が
放浪と絶望の先に見出した「芸と仕事」を語る

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Profile
プロフィール
氏名 坂東工
会社名 株式会社MORIYA
出生年 1977年
略歴 ハリウッド映画『硫黄島からの手紙』に主要キャストとして出演、『バチェラー・ジャパン』の司会、NHK大河ドラマの衣装デザイン、レザー・アーティスト、画家などとしても活動中。
Interviewer
Masahira Tate
Masahira Tate

Amazon プライム・ビデオの人気恋愛サバイバル番組『バチェラー・ジャパン』の司会、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』谷田大尉役、さらにはNHK大河ドラマの衣装デザイン、レザー・アーティスト、画家などとして活動する坂東工さん。衝動に突き動かされて生み出される表現こそがアートであると言い、模倣や型にはまった表現を忌避して独自のキャリアを切り拓いてきた鬼才が、波乱万丈のストーリーを語ります。

11歳から独り暮らし、地元は無い

—【聞き手:楯雅平、以下:楯】本日はよろしくお願いいたします。私たちは『ザ・キーパーソン』というオンラインメディアでして、時代のキーになる人、社会やコミュニティに何かしらのインパクトを与えるような仕事や活動をされているビジネスパーソンやアーティストにインタビューをしています。生い立ちからキャリア形成、苦労や成功のエピソードなど、幅広い内容でお話をおうかがいできればと思っていますので、よろしくお願いします。

‐‐‐【話し手:坂東工(敬称略)、以下:坂東】わかりました、よろしくお願いします。

—【楯】さっそくですが、まずは、生い立ちから教えてください。

—【坂東】生まれは徳島ですが、すぐに東京に引っ越しました。その後は横浜に行ったり、また東京に戻ったりと……1〜2年住んでは引っ越しを繰り返して、という生活でしたね。だから“地元”がありません。

子供のころは両親の仲が良くなくて、おふくろと兄、姉、僕の3人で暮らしていました。兄が大学に通うために一人暮らしを始め、姉もアメリカのボストンに留学する頃におふくろが大阪に帰ることになって、僕はかなり小さいころから東京で一人暮らしをすることになりました。

一応、銀行口座に毎月お金を振り込んでもらっていましたが、子どもなのでキャッシュカードを使ってお金を引き出そうとしてもできない。銀行で「この子は何してるの?」みたいな話になっちゃうわけです。仕方ないので親の知人を頼って、アルバイトみたいなことをさせてもらっていました。何もできやしなかったですが……八百屋の手伝い、皿洗い、新聞配達、いろいろやりましたね。

弁当とかを作ってくれる人もいないので、コンビニやお惣菜屋で買って食べて、という生活でした。コンビニが僕を育てたと思っています(笑)。

—【楯】そういった環境はつらかったですか?

—【坂東】寂しいとか、親の愛情が欲しいとか、そういう意味でつらいと思ったことはないですね。諦めていたのかな。

アートを学ぶなんて、ナンセンス

—【楯】学生時代の坂東さんについて、教えてください。

—【坂東】日大芸術学部の演劇学科、演劇コースに通っていました。

芸術学部卒であるということについては、いま芸術に携わるようになってみると思う所があります。芸術というのは、自(おのずか)ら湧き上がってくるものごとを表現するということなので、僕の場合は誰かに教えてもらう類のものではなかったなと。誰かから影響を受けるということはありますが、その対象を超えるための努力や、それを感じた自分に責任をとっていくという作業のほうが僕にとっては正しい行ないのように感じます。

いろいろなやり方があっていいと思うし、「うまくなるには、美術館に行くことだ」とか「たくさん映画をみなさい」という人はいるけれど、僕には、それが合わないのですよ。うまくなりたいなんて一切思わないし、自分の中にあるモノがそのまま出ていけば良くて、上手下手、正解不正解なんてありません。むしろ、そういう概念から解放されないとダメだと思います。

模倣の対極にあるのは、命、衝動だと思っています。僕は革や石を使ってアートをやるのだけれど、対象と向き合った時に見えるストーリーを僕が再生するだけです。絵を描くときも、絵の具を叩きつける、対象やモデルを見るとはなしに見ながら自動処理みたいにして出来上がってくるのが僕の絵です。

これは1種の変性意識状態、何か降りてきている状態といってもいいかもしれませんね。衝動が起きたときに、アクションを起こしてモノを創るのですが、それは外部から来ます。それが訪れたときには、もう始めています。誰か……というか、何かに創らされている感覚ですね。

—【楯】学生のころ影響を受けた人や作品は?

—【坂東】あえて、影響を受けたというなら、ビートニク(※01)の作家というか、詩人たちかな。ジャック・ケルアックやグレゴリー・コーソには、なんかね、自分と相通ずるものを感じていました。アレン・ギンズバーグはあまりピンとこなかったけど。

※01:1910年代に始まったアメリカ文学界のムーブメントやその担い手たちのこと。カウンターカルチャーの発祥、ヒッピー文化のルーツとされることも。

オフ・ブロードウェイで吐く

—【楯】大学をご卒業後に渡米されていますね?

—【坂東】はい。実はその前、19歳の時にもアメリカを旅行していて、ニューオリンズやニューヨークを訪れていました。そこでオフ・ブロードウェイにある80席くらいの小さな劇場に行って『ファンタスティックス(※02)』を観ました。

※02:超ロングラン作品として知られるミュージカル。隣どうしに住むマットとルイザの恋を描く舞台作品。2人の父親たちは犬猿の仲のふりをしているが、実は大親友。子供同士をゆくゆくは結婚させるために、あえて父親どうしの不仲を演じて「恋の障壁」をつくることで、互いの子どもが恋仲になるように仕向けていた。父親どうしの和解を演出し、二人の絆をさらに深めるため、とある芝居を打つことを考えつくが、状況が意外な方向に……という内容。

その時に、舞台のエネルギーに圧倒されて、泣いたり、吐いたりしてしまいました。「なんだ、これは!」という衝撃で、身体が異常な反応をしてしまったのです。ストーリーそのものは男女の恋を描く、わりと王道の作品ではあるのですが、当時の僕はとてつもない衝撃を受けました。一緒にいた人は「ちょっと、どうしたの?」という感じで、何が起こっているか理解できなかったようですね。実際、僕も自分の身体に何が起こっているのかわからなかった。けれども、ぜんぶ観終わった後は放心状態でとてつもない衝撃を受けていたことを覚えています。

劇場を出るとグリニッジ・ビレッジの街があって、ライトアップされたエンパイア・ステートビルが見える……そんな場所でボーッと立ち尽くしていました。すると、劇場から役者たちが出てきました。ヒョイと自転車を持って「これからデートだよ」、「そりゃいいな。じゃ、明日もよろしく」みたいな会話をしながら、さっそうと街に消えていく。そんな感じで、日々舞台が行なわれ、生活が回っている様子を目の当たりにしました。

もうね、それでまた衝撃を受けて「なんだ、この街は!」と思いましたよ。これが19歳の時です。それからずっとニューヨークに住んでみたいと思っていました。何をするって目的なんかなく、英語を勉強したいとかも思わなかったんだけど、ただひたすら「あの街に住みたい」という思いがあって、「行っちゃえ!」と決めたのが大学を卒業した年です。

—【楯】現地にお知り合いとか、ご親戚がいらっしゃったということは?

—【坂東】まったくありません。ロサンゼルスに姉が住んでいましたが、連絡先も知りませんでしたし、ニューヨークにはまったく知り合いも、親戚もいませんでした。

人生を左右する“彼女”との出会いと別れ

—【楯】ニューヨークでの生活は?

—【坂東】最初の半年くらいは日本人コミュニティの中で暮らしていました。当時からニューヨークにはたくさんの日本人が居て、ネットワークも発達しているので、英語を話す必要すらなく生きていけてしまうという状況で……(笑)。それが嫌だったかというと、まったくそんなことはなくて居心地は良かったのですけど、「なんか違うよな」という思いはいつも感じていました。

それで、えー、ちょっと話が変わりますが……後ですべてつながるので聞いてください。当時付き合っていた女性がいましてね、彼女はダンサーだったんですが、本当に命を燃やすように踊る人だったのです。彼女が踊るのを見て衝撃を受けて……放心してグラスを手から落としてしまう、という経験をしました。それくらい強烈なエネルギーを持っている人で、この時も、後々も彼女の存在は僕の人生に大きな影響を与えています。

この彼女と一緒に旅をしようと思って、車を買って準備を整えました。そして、いよいよ明日から旅に出るという日になったら、彼女が突然「日本へ帰る」と言い出しました。驚きましたし、意味がわかりませんでしたが……やはりどうしても旅に出たくて「僕は行く」と言って、独りで旅に出ました。高校生や大学生のころからバックパッカーをしていて、まぁ、好きなのかな、旅が。目的なく、どこへでも行く、みたいな感じがね。

アメリカはとにかく広い所ですから、そこを車で旅するとなると1日で500kmくらい走ることになります。ほとんど変わらない風景の中を延々と走るわけですが、とにかくガソリンだけは安いので、どこまでも行けるという国です。余談ですが、その後の旅も含めると、ルート66(※03)とか3往復していますからね(笑)。

※03:アメリカを横断する旧国道。映画、ドラマ、音楽、小説など、無数の作品の舞台に取り上げられるアメリカを象徴する場所の一つ。

そんな中で、命の危険を感じることは何度もありました。暴漢に襲われたり、銃で撃たれたり、コヨーテに囲まれたりとかね。その中で、一番「ヤバい」という思いがこみ上げてきた体験が、グリズリーとの対峙でした。これはもう絶対に勝てないという感覚、武器があろうが無かろうが、ダメだなと悟らされる。身動きできないまま、漏らしてしまう……そういう状態でした。結局、ゆっくりゆっくり下がって、襲われることはありませんでしたが、その経験で自分の既成概念が破壊されました。それから、彼らの姿、造形を見るとゾクゾクしちゃうんですよね。ある種の変態性に目覚めたといってもいいと思います。

あとは、石ですね。

—【楯】え、石ですか?

—【坂東】なぜ、あんな色になっていくのか……。割ってみるとすごく鮮やかな色をしているでしょ?グリーンとかピンクとか、どうしてこのカラーになるんだろうってね。一時期は本気で地質学者になってみようと思ったくらい、石に取り憑かれていたこともありました。それでね、レインボー・ペトリファイ・ドウッド、日本語では虹の珪化木(けいかぼく)っていう樹木の化石があるんですよ。それを割ってみると、年輪があって木なのが、その中に本当にいろいろな色がある。

コロラドの自然の中で地中に埋もれた木がいろいろな物質と触れ合って、2億年かけて虹の珪化木になるらしいと……。それを知ったらドキドキしちゃうよね。そういう経験があったから、今もレザーや石を使ったアートをやっています。

絶望の先の演劇

‐‐‐【坂東】その後、僕は1年半もアメリカを転々としていました。物書きになろうと思っていたのですが、1行も文章を書きませんでした。書けなかったというよりは、書かなかったんですよね。毎日が楽しすぎて……風景を見ているだけで心がどんどん解放されていく。本当に満たされていました。そんなふうにして暮らしながらサンフランシスコに流れ着きました。そこで、ダンサーの彼女の家に電話をしたら……彼女は亡くなったと聞かされました。

彼女のおばあちゃんが電話に出てね、彼女は病気だったと言うのです。1年半前に、旅に出るその日に彼女が突然僕の前を去った……なぜか? 彼女は自分の病気のせいで僕の夢を殺したくなかったからなのか? ……でも、本当のことは、もう、どうあがいてもわからない。だから、いろんな思いで頭の中がグチャグチャになりました。1週間くらい、モーテルのベッドの上で動けなくなってしまい、心配した宿の人がシャワーを浴びせたり飯を食わせたりしてくれて、なんとか生かされていた感じです。

だんだんと正気にもどってきて、食堂でメシを食っていたら、壁に掲示板がかかっていて、そこには「演劇学校の学生募集」と書かれていました。それを見て、「何かしないといけない、動かないといけない」と思って、学校に行くことにしました。その時は、演劇をやりたかったとか、誰かに憧れたというわけではありませんでした。

そうして、通い始めたのがACT(American Conservatory Theatre)です。そこで、1日に14時間くらい勉強して、寝ているとき以外はほぼ勉強という日々を1年間続けました。英語を母国語としない人では初めてトップのクラスに入り、発表会の舞台をやったら、その芝居をみた先生が「あなたの芝居には痛みがある。なぜ、そこまで芝居に身を捧げられるのか?」と聞かれました。

そのときに初めて、「自分に表現を教えてくれた彼女を病気で亡くした。絶望しているときに、芝居に出会った」という話をしたら、その先生は号泣しながら聞いていました。最後にハグをしてくれた後に「ニューヨークに帰りなさい。そこにあなたのやることがあるから」と言ってくれたのです。

その後ニューヨークに戻って、「亡くなってしまった彼女に届く表現をするにはどうしたらいいか」とずっと考えていました。それで「彼女がダンスやパフォーマンスが好きだったから、僕もやってみよう」と。踊りなんて一回も習ったことはありませんが、踊りました。演出なし、音楽は即興、リハーサルで一回も踊らない。本心を言うと、踊れない事がバレるのが怖いから踊らないというのもありましたが……。

そんな状態で、1,000人ぐらいが集まるステージに立ちました。白塗りにして、変性意識状態に入っていくと……その時に彼女が見えました。照明の奥に、確かに、彼女が居ました。7分間のパフォーマンスを終えた後に僕は気を失って、意識が戻ったときには何を踊ったかも、客の反応がどうだったかも覚えていない。ただ、彼女と会話をしていたことだけを覚えています。

スポーツ選手がゾーンに入るといいますが、自分にとってのそういう経験だったのかもしれません。それから、どうしたらまたそこに行けるか、また彼女に会えるか?と考えてパフォーマンスを続けました。ところが、そう考えると、ゾーンに入れない。入りたいと思うと、余計に遠ざかってしまいます。だから、彼女には、もう会えませんでした。

ただ、エンターテイナーとしては成長していくので、それでスポンサーがついたり、東海岸でツアーをしたりと活動の幅は広がりました。でも、やはり、ゾーンには入れない。それで、いろいろ調べて、禅の本なんかを読むと「自分がすべての概念から解放されて、だた、そこに“あるようにある”」というのは「難中の難」、つまりもっとも困難な事だと書かれていました。自分が目指す表現はそこにしかない。だから、なんとしてもやらなければ、そこにたどり着かなければと思い始めました。

そんな心境の時に、実際にやっているCMの仕事は「Yeah! ラーメン、スシ、ニンジャ」みたいなものばかりですから「いったい何をやっているんだ……」という思いに苛まれていました。

ハリウッド映画デビュー

—【楯】映画俳優としてのキャリアはどのようにして始まったのですか?

—【坂東】最初は、オーディションを受けて、マーティン・スコセッシ監督の『ディパーテッド』に参加させてもらいました。「トライアド」というチャイニーズ・マフィア軍団の一員役です。受かったときは「僕、チャイニーズじゃないけど、それでもいいんだ(笑)」っていうのが、まず驚きでした(笑)。

現場に行ったら、体育館4つ分くらいの巨大なセットがあり、その中で撮影していくわけです。普通にレオナルド・ディカプリオとかマット・デイモンが歩いていましたし、一瞬「ここはどこだろう?」という気分になりましたね(笑)。

でも、僕のシーンはとても長い時間フィルムで撮影したのに、ほぼカットされてしまったという。それが、デビューだったんですけど、やはり自分が出ているシーンが使われなかったことが悔しかったんですよね。それで、ずっと「チャンスはないか、チャンスはないか」と思っていました。

映画ではなく、テレビCMなどの役では、僕はニューヨークのアジア人の中で当時は一番仕事をとっていたと思うんですよ。オーディションに行くと、100人、200人と集まるわけですが何回か参加するとだいたいみんな顔見知りになってきて、同窓会みたいな感じで、だれが仕事を取れた、取れないというのはよくわかるんです。そんな環境で、僕は9連勝、つまり受けたオーディションに9回連続で受かっていました。

—【楯】それだけ、オーディションで勝てた理由は?

‐‐‐【坂東】心が尖りまくっていたからだと思います。荒んでいたというのとも違って……なんというか、全員が敵という捉え方。ナンバーワンにならなければダメで「0か100か」という世界ですから。ゼロはゼロ、何をかけても「0」のままです。でも、100が手に入れられれば、それがドカンと1,000にも10,000にもなる。

そんな世界で、ブラフでもなんでもいいから「あぁ、それならやれますよ」と言って前に出ていく度胸ですね。身長185cmの役を募集している所に177cmの僕が行くわけです。ヒップホップのダンスができるかといわれれば「あぁ、うん、やれますよ」とハッタリかまして、帰ってすぐ練習するみたいな感じです。なぜ勝てたかと言われれば、そのハングリーさとブラフだったんでしょうね。それが通用したという意味では、いい時代だったのかな(笑)

転機となった『硫黄島からの手紙』

‐‐‐【坂東】でもね、そうやってCMの役がいくらとれても、「自分は何をやってるんだろう」という思いは変わりません。「自分が使い捨てされてしまう」という感覚かな……その状況を変えなければいけないと思って、いったんそういう仕事はぜんぶ辞めることにしました。なので、エージェンシーからくるCM関連の仕事の紹介は全て断りました。それで、この1本に賭けようと決めたのが『硫黄島からの手紙』です。

最初のオーディションで200人くらい受けて、次に50人、その次は3人となって、最後は僕だけでオーディションを受けました。オーディションにはリーダー(Reader)という台本の読み合わせに参加するスタッフがいて、その人がぐうぜん後輩だったので、いろいろと内幕を教えてもらったんですよ、その時のキャスティング・ディレクターだったフィリス・ハフマンが僕の演技を見て「ワォ」と言っていたと。それを目にした後輩が、「坂東さん、これはぜったい、通りましたよ」とこっそり教えてくれました(笑)。

その後、正式に役が決まって、ロサンゼルスに行って衣装合わせをしていた時に僕を谷田陸軍大尉(※04)の役に選んでくれたフィリスが前日に亡くなっていたと聞かされました。彼女はクリント・イーストウッドとずっと一緒に仕事をしていたおばあちゃんで、最後にキャスティングしたのが、僕だったんです。彼女の息子の、マット・ハフマンが僕のところに来て、その話をした後に「がんばって」と言ってくれました。それを聞いて、泣きましたね。

※04:坂東さんが演じた谷田陸軍大尉は、二宮和也さんが演じる西郷が所属する部隊の中隊長。敗戦が濃厚となる中での硫黄島の激戦下で、部下に自決を強いて自らも死を選ぶという壮絶なキャラクター。

大事な役なのですが「台本は撮影の前日まで渡さない」と言われました。「前に渡すと、キャラクターをつくり過ぎるから」という話らしく……。本質を見抜かれていたのかもしれませんが……踊りも演技もその場でバンと出す、それを求められていました。それを聞いてから、凄まじいプレッシャーで眠れなくなり、食事も喉を通らず、70kgくらいから55kgまで痩せました。そんな中で、洞窟の中で死んでいくシーンのセリフを言う時に、その場に居ない人が見えていました。このときも、また、ゾーンに入っていたのだと思います。

そんな感じで『硫黄島からの手紙』の撮影が終わって、ニューヨークに帰ってきたら、周囲の見る目が変わっていました。その前は、僕は馬鹿にされていたんですよ。ドリームキラー(※05)みたいな連中がいて、「お前、いつになったら映画館でみられるんだよ?」といった嫌味を言われたり、もっと傷つくようなこともたくさん言われました。それに対して、虚勢を張って「いつか出ますよ、いや、スグにね!」なんて言い返してました。

※05:ドリームキラーとは夢や目標を阻害する人。「あなたには、できっこない」「現実的な選択肢を選びなさい」などといったアドバイスをするのが典型で、善意からの場合も悪意からの場合もある。

それが、『硫黄島からの手紙』を撮って帰ってきたら、全員手のひらを返したような状態になりました。人間はこんなに変わるのか、という感じでした。それで、目の前に敵がいないという感じになってしまって……仕事としてはアメリカに居続けたほうがベターだという話は当然あったんですが、日本に帰国する決心をしました。「俺がすごいんだ。俺の方がお前よりすごいんだ」といって、周囲の人を押しのけて、押しのけ続けて生きるのに燃え尽きたというか、そういうのもあると思います。

—【楯】海外で仕事をしようとする人へのアドバイスは?

負けたら死だというくらいに思ってやればいい。勝つしかない、ってね。目の前にある「やること」に対してそう思って、やるしかない。

“ジオデシック”の邂逅とアート

—【楯】アートを始められたきっかけは?

—【坂東】先にお話しした通り、石やレザーには若い頃から惹かれていたのですが、アートを本格的に始めた理由は、これも偶然ですね。中目黒を歩いていてフラッと入ったお店で、僕が作った革の腰巻きをみて「それなぁに?」と声をかけてくれた女性がいました。彼女が、このお店のオーナーだったので、名刺をお渡ししました。その時の僕の名刺の裏にバックミンスター・フラー(※06)という人の散文が書いてあって、彼女がオーナーをしているお店の名前もフラーの建築物からとったものだったのです。いまは、もうありませんが『ジオデシック』という名前です。不思議な偶然ですよね?

※06:バックミンスター・フラーはアメリカの思想家。富を脱貨幣価値的に定義したり、持続可能な社会の構築のための設計や発明を行なうなどし、先進的な取り組みをした建築家。デザイナー、詩人、発明家としても知られる。

そのご縁で、彼女から「新しいお店を出すのでアーティストとして参加してください」といわれました。個展をやったら2週間で2,000人くらいが来てくれたり、西武デパートに作品が並んだ時は1週間で売り切れたりという感じでした。それから、本格的にレザーや石のアートをやるようになりました。

—【楯】ブランド名と、どこで買えるかを教えてください。

「Takumi Moriya Bando」という名前でやっていまして、一般販売はしていません。スマホケースとかの作成は頼まれるけど、使って2年なので、そういったものに「命」を使いたくないというか……。知り合いなどに頼まれたらやりますけど、それ以外は作りませんね。長く愛でてもらえるからこそ、命の再生をしている意味があるので。そろばんをはじくと、商売的にはやった方がいいに決まってるんですが、それはやりません。



坂東工さんのInstagram


» Takumi Moriya Bando



—【楯】わかりました。では、最後に私たち『ザ・キーパーソン』恒例の質問です。時代のキーになるような働き方、社会やコミュニティにインパクトを与えるような生き方をしたいと思う人へのアドバイスやコメントがあればお願いします。

—【坂東】自分の欲しい物だけを取っていけばいいと思いますよ。だれかのようになる、どっかにあるようなビジネスモデルをやるとかじゃなくてね。自分が何を感じて、何に実感を得るかということ。僕の場合はそれだけが“ものさし”です。まずは本当に自分が「感じられる」モノゴトを探せばいい。

自分にウソをついたら曇りますからね、自分の存在が。

—【楯】本日はプライベートな部分も含め、本当に貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

—【坂東】こちらこそ、ありがとうございました。


【撮影協力(場所提供)】株式会社ISAO


Company
会社情報
企業名 株式会社MORIYA
業種 俳優、アーティスト
URL https://www.takumibando.com/