第三者視点を忘れず、自分の仕事に誇りを持つ。型にはまらない生き方で魅せる、junhashimotoのファウンダー、ファツションデザイナー橋本淳の美学

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氏名 橋本淳
肩書 ファッションデザイナー
1992年、地元徳島のセレクトショップでインポートや古着を仕入、販売。1996年、レクレルール日本一号店にてバイヤーを務める。2000年、単身イタリアに渡り、伊ブランド「カルぺ・ディエム」を運営する会社初の外国人スタッフとし、営業・企画に携わりながら、服作りを学ぶ。2003年、同ブランド代理店を設立するため帰国。翌年、ショールーム「wjk」を設立。2008年、自身のブランド「ジュンハシモト」をスタート。2014年から日本「粋」をテーマに、「柔と剛」「光と影」「デザインと機能」など、相反するものを、掛け合せ、融合し共有する手法により作品を発表し続ける。近年では、野村不動産初のホテル事業において運営されるNOHGA HOTEL(ノーガホテル)へ、日本の技術、ジュンハシモトの機能美を活かしたユニフォームを制作した。また2019年、航空会社のStar Flyer(スターフライヤー)と協業し開発された商品、『+FLOW』を発表し、多くのメディアの話題となった。

取材構成/松嶋活智 撮影/原哲也 企画/大芝義信

junhashimotoは「マイナス3kg、プラス3cm」に見えるように計算された美しいシルエット、機能美が備わった唯一無二のドメスティックブランドだ。

同ブランドを手がけるのは、デザイナーの橋本淳氏である。同氏は自身のブランドを手がけるだけでなく、2022年4月には実業家であるローランド氏とのコラボレーションを発表し、話題を呼んだ。

ファッション業界を常に牽引している橋本氏の根幹にあるものはなんなのだろうか。本稿では、同氏の人生を振り返るとともに、長きに亘って業界のトップを走り続けられる秘密に迫った。

人生が大きく動いた大阪時代。“憧れ”のセレクトショップで働くために直談判

—【聞き手:松嶋、以下:松嶋】最初に自己紹介をいただけますか。

—【話し手:橋本氏、以下:橋本】橋本 淳と申します。junhashimotoのデザイナーをしているほか、アパレルブランドのサポートもしています。最近では、ヒルトングループのホテル・Conrad Tokyoなど、ファッション以外のさまざまな企業とのコラボレーションもしていますね。

—【松嶋】デザイナーとして、多方面で活躍されているのですね。

—【橋本】デザイナーと言っても、これまでデザインの勉強をしたことはなく、専門学校に行ったこともないんですけどね。

—【松嶋】デザイナーになるまでは、何をされていたのですか?

—【橋本】ずっとアパレル関係で働いていました。最初のキャリアは、徳島にあるセレクトショップの販売員です。店内で接客などを担当していて、しばらくしてから、バイヤーとしてバイイング(仕入れ)もするようになりました。ハイブランドほどではないものの、高価な服を扱っていて、ヨーロッパなどに買い付けに行っていましたね。そこで3年ほど働いたあと、大阪に引っ越して、1年ほど某人気ブランドの販売員もしていました。

人生で一番といってもいいほど行動力を発揮したのは、大阪時代ですね。販売員として働いている時に、L’eclaireur (レクレルール)がHERBIS PLAZAに入るという噂を聞きつけたんです。

—【松嶋】パリの有名なセレクトショップですね。

—【橋本】ええ。その話を聞いた瞬間、「そこで働きたい!」と強く思いました。

HERBIS PLAZAは高級ホテルのザ・リッツ・カールトン大阪に隣接するショッピングセンターですので、まずはホテルに電話。すると「阪神電鉄に電話してください」と言われ、阪神電鉄に電話したら「阪神百貨店に電話してください」と、たらい回しにされて(笑)。阪神百貨店に電話したら、運営会社の名前を教えてくださったんです。

そこで運営会社に電話し、「働かせてほしい」と直談判した結果、無事に入社することとなりました。

理不尽な運営方針に反旗を翻し、スカウトをきっかけにイタリアへ渡る

—【松嶋】L’eclaireur で働いてみて、いかがでしたか。

—【橋本】面白かったですよ。ただ、服は全く売れませんでした。日本人からすると馴染みのないブランドが多く、価格帯も高かったですからね。また、フランス人のオーナーが仕入れたものを販売するシステムだったため、日本の気候に適していない服ばかり売っていたのも問題でした。ヨーロッパは湿気がなく、日本と比べると気温が低いため、春夏なのにTシャツは1型で、ジャケットが大量に入ってくるなんてこともあったんです。

上司にシステムを変えてほしいとお願いしても、「有名なバイヤーが仕入れているから、こちらから意見はできない」と言われてしまい……。自分にバイイングをさせてほしいと言っても、「そんな前例はない」と一蹴されてしまいました。

—【松嶋】運営会社の立場が弱かったのですね。

—【橋本】それなのに、売り上げは立てないといけない。理不尽すぎて、腹が立って仕方なかったですよ(笑)。

どうすれば服が売れるようになるのか考えていた時に、ふと気づいたんです。「自力で海外に行ってバイイングすればいいのでは?」と。会社に認められてない以上、もちろん経費は出ません。しかし、自分の休日を返上して仕事をするのだから、タイムカードは押してもいいだろうと。それさえすれば、日給は手に入るわけです。上司をなんとか説得して、私がバイイングに行っているときは、タイムカードを押してもらうようにしました。

日給よりもバイイングにかかる費用の方が高いですし、収支的にはマイナスでしたけどね。自分が納得してやっていたことですし、海外に行くのも楽しかったです。

—【松嶋】その当時は格安航空などもないでしょうし、自力で渡航するのは大変だったのでは?

—【橋本】2回ほど自腹でヨーロッパに行ったあと、会社が認めてくれるようになったんですよ。その後は、正式なバイヤーとして年に4回ほど海外でバイイングしていました。

—【松嶋】L’eclaireurで3年ほど働いたあと、2000年にイタリアの会社に転職したとお伺いしました。これは何がきっかけだったのですか?

—【橋本】バイイングでフランスに出張している時に、イタリアのブランド・CARPE DIEM(カルぺ・ディエム)のデザイナーであるマウリッツィオ・アルティエリ氏と出会い、意気投合したんです。

彼からスカウトを受けたことをきっかけに、日本の会社を退職して2000年からイタリアで働くこととなりました。

—【松嶋】出張先で運命の出会いがあったと。

—【橋本】ええ。

最初は大変でしたよ。バイヤーの経験があったと言っても、イタリア語を話せるわけではなかったですからね。ブランドとしても外国人スタッフは、私が一人目だったようです。

—【松嶋】海外で働くとなると文化も全く違いますし、一人目の外国人スタッフということは、会社としてもサポート体制は充分ではなかっただろうと思います。苦労も多かったのでは。

—【橋本】そうですね。営業としてバイヤーに服を売り込む仕事を2年半ほど続けたものの、嫌になってしまいました(笑)。

アルティエリ氏の意見がコロコロ変わることについていけなくなってしまったんです。ブランドの人気が高まるほど、彼は商業的なことを否定するようになってしまって。売り上げに固執してしまうのは良くないものの、否定するのはダメだと思うんですよ。

誤解されたくないので一言付け加えると、当時も今も、アルティエリ氏を尊敬する気持ちに変わりはありません。彼からは多くのことを学ばせていただきました。ただ、当時は仕事に楽しさを感じられなくなってしまっていたのも事実ですね。

退職することを決意して「辞めます」と上司に伝えたら、「せっかくだから何か一緒にしよう」と誘われまして。もともと私が雇われたのは、会社として「日本人や日本の会社と仕事がしたい」と思っていたことが理由の一つだったそうです。当時のイタリアは納期が適当な製造会社が多く、日本の“正確な仕事”に興味を持っていたんですね。

日本製の服を作りたいという思いもあったらしく、私が日本で代理店をしながら工場を探すということで話がまとまり、帰国することとなりました。

デザイナーとしての才能が開花するも、全てを手放し自身のブランドから離脱

—【松嶋】日本に帰国して、まずは何をされたのですか?

—【橋本】代理店として2003年にwjkという事務所を設立して、CARPE DIEMと業務委託を結ぶような形で、日本の卸先や販路を開拓していました。

製造会社はたくさんありますし、服を製造してくれるところは、比較的スムーズに見つかったんですよ。しかし、決定権を持っているのはイタリアの会社であるため、話が全く進みませんでした。工場側と話していると、進捗のなさに不満が溜まっているようだったので、ひとまずCARPE DIEMとは関係のない服のサンプルを作ってもらうことにしたんです。

というのも、実はその当時、理想とするブランドのイメージが自分の中で出来上がっていたんですよ。工場側と話を重ねるうちに、“理想の服”を作ってみたくなって。サンプルを作ってもらうと、素晴らしいものがたくさん出てきたんです。「これは絶対売れる!」と確信しましたね。

そんなことをしているうちに、CARPE DIEMの日本製を作る計画が白紙になってしまいまして。サンプルで素晴らしい服が出来上がっているのだから、商品化しないと勿体ないと思い、2004年に自身のブランドであるwjkを立ち上げることになりました。

—【松嶋】そういった始まりだったのですね。

—【橋本】ええ。wjkは順調に話題を集めることができて、気づいた時には「人気ブランド」と呼ばれるようになっていました。

アパレルに関する多くの業務を経験してきて、裏側の事情もわかっていたことに加え、ユーザーの目線も持っているため、消費者ニーズにピッタリと当てることができたのだと思います。

—【松嶋】wjkといえば、シワが入ったホックで留めるタイプの白シャツが発売された当初は衝撃を受けました。

—【橋本】そう言っていただけると嬉しいですね。

あれはイタリアで働いていた時の経験から着想を得たものなんですよ。もともとCARPE DIEMはレザーで有名なブランドです。彼らの何がすごいかというと、レザーを洗って丸めて乾かして、わざとシワを作ってから納品していたんです。シワ加工するのではなく、「シワが入ってるのがかっこいいよね」というスタンスだった。それが驚くほどヒットしたんです。

とはいえ、それをそのまま真似したら、劣化コピーでしかありません。そのため、レザーで同じことはしないと決めていました。そしてある時、デニム製造で有名な方と出会い、デニムを作ることになったんです。あの白シャツは、その方との出会いがきっかけで誕生したものなんですよ。

—【松嶋】あの当時はデニムといえばカジュアルというイメージでしたが、あの白シャツはモードさもありましたね。まさにデニムのイメージを覆す名品だなと。

—【橋本】それこそが、私たちの狙いでした。デニムはベーシックな素材であり、どうしてもカジュアルなイメージが出てしまう。それを崩すことができたら面白いなと思ったんです。

あの服ができたことによって、ベーシックなものであっても、角度を変えれば全く違うものになると証明できたと考えています。

自分の理想を形にすることができて、消費者も喜んでくれる。これほど楽しいことはありませんでした。ブランドも順調に成長していましたしね。

—【松嶋】そんなに楽しかったwjkを2008年に離脱されていますよね。何がきっかけだったのですか?

—【橋本】ブランドの規模が大きくなるにつれ、当たり前ではあるのですが、やることが増えてしまったんです。

特に覚えているエピソードは、従業員が30人ほどになり、オフィスを引越してショールーム兼事務所を作ろうと考えていた時のこと。

同時に店舗も新しく出すことになっていて、デザインを考えるのはもちろん、各関係者とのやり取りや銀行からの借り入れなども並行して行っていました。その日はまず新店舗の内装を決めて、服に使用する生地を選んで、銀行に借り入れの話をしに行って、バックオフィス業務をこなす、といったスケジュールでした。すると、借り入れの話をしている途中で、従業員から連絡があり「来週来るバイトの時給はいくらですか?」と聞かれたんですよ(苦笑)。お金のことですし、決定権のある私に聞かないといけないという判断は理解できるのですが、気持ちとしては「そんなの事後報告でいいのに。バイトの給料まで私が決めないとダメなのか……」と。

—【松嶋】自分の専門外の領域の仕事が増えすぎてしまったのですね。

—【橋本】あまりの多忙さに心が折れかけた時期もありましたね。最終的に黒字倒産しそうになった時に、付き合いのあった生地屋から「商社を紹介するよ」と言っていただいたんです。最初は感謝していたものの、実はそれが離脱の直接的なきっかけとなりました。

—【松嶋】というと?

—【橋本】紹介していただいた商社が、生地屋の親会社だったんですよ。私の知識が少なかったこともあり、株を半分ほど商社に渡すことになって。結果として商社側がwjkの経営に関与するようになってきて、いろいろと面倒くさくなってしまったんですね。結果として、wjkから離れることにしたのです。

苦節を経て立ち上げたjunhashimoto。マイナスからスタートし、日本一のおじさんブランドに

—【松嶋】wjkを離脱した後、2008年にご自身の名を冠したjunhashimotoを立ち上げられていますね。

—【橋本】ええ。あまり知られてないのですが、wjk時代の負債を抱えた状態でスタートしていて、最初は大変だったんですよ。しかし、現在は日本のドメスティックブランドとして、国内だけでなく海外の方にもご愛用いただくブランドにまで成長しました。

自画自賛となってしまいますが、junhashimotoはコンセプトの決め方が秀逸だったなと。2008年ごろのドメスティックブランドは、ターゲット層的にも若者向けのものが多かったんです。しかし、デザイナーである自分も含めて、全員が年を重ねていく。それなら、最初から“日本一のおじさんブランド”を目指す方がいいだろうと考えました。

イタリアには中高年向けのものも多くありますが、国内にはそういったブランドがなかったため、消費者ニーズにうまくマッチすることができたのだと思います。男性向けファッション雑誌の『LEON』とタイアップしたドメスティックブランドは、junhashimotoが初めてなのではないでしょうか。

—【松嶋】junhashimotoといえば、人気ブランドの筆頭です。ここまで成功したのには、コンセプトの秀逸さだけでなく、他にも理由があるような気がします。

—【橋本】なんでしょう……。

他のブランドと何が違うのか考えると、デザイナーである私がデザインの勉強をしたことがないのは、差別化できている理由の一つかもしれませんね。

デザイナーの仕事というと、まずは絵でデザインを具体化することが多いでしょう。それをパタンナーが形に起こして、デザイナーがデザインに合った生地を探しにいく。そういった試作を繰り返して、服が出来上がっていきますよね。

しかし、私は絵が苦手なんですよ。デザイナーというよりも、料理人のような仕事に近いのかもしれません。彼らが食材をみて料理を考えるように、私の場合は生地を見てからデザインするようにしています。

また、アパレルで働いていた時に「裏地が変だな」「襟をもう少し高くするとかっこいいのに」といった不満も感じていて。その不満をjunhashimotoで解消している面もありますね。

—【松嶋】ナイロン生地のセットアップは画期的だなと思いました。あれも生地をみて考えついたものなのですか?

—【橋本】ええ。今は似たようなデザインのものが増えたんですけどね。ナイロン生地のセットアップを作ったのは、junhashimotoが一番だったのではないかと。

—【松嶋】穴が空いていて、夏でも着られるジャケットも面白いですよね。

—【橋本】ありがとうございます。あれは「真夏でも着れるセットアップが欲しいな」という考えを元に制作しました。夏でもジャケットを着なければいけない方もいますし、きっと需要はあるだろうなと。

デザインはもちろん重要なんですが、着心地も大切じゃないですか?例えば画期的なデザインの服がヒットして、何百枚売れたとしても、着心地が悪くて数回しか着てもらえなかったら意味がないと思うんです。デザインがいいのは当たり前ですから。そこに機能美を加えられているかどうか、そこがデザイナーの腕の見せ所です。

着心地がいい服は、自然と着る回数が増えていくでしょう。そうすると、周囲に見られる機会が増えて、その服を見て「いいな」と思った人が新しく購入してくださる。「いい服」というのは、そうやって自然と周囲に伝染していくことで、多くの人に愛されるようになるものだと思うんです。

—【松嶋】junhashimotoの服は、中高年に向けたものだとお話しされていましたが、老若男女を問わず受け入れられるデザインも特徴ですよね。

—【橋本】実は、私が作る服は「母親に愛される服」を意識しています。一番自分のことを見慣れているであろう母親に「その服いいね」と言ってもらえるなら、多くの人に愛される服だと言えるだろうと。

シンプルながら遊び心のある美しいデザインで、かつ着心地が良くてついつい着てしまう。そんな服づくりを目指していますね。

「やりたいことがたくさんある!」自身の仕事に誇りをもち、挑戦を続けていく

—【松嶋】最近では、著名人や高級ホテルなどとのコラボレーションも積極的に行われていますね。

—【橋本】ええ。実は2021年に雇用形態を変えているんです。以前はjunhashimotoの​​役員として働いていたのですが、個人のデザイン事務所を立ち上げました。その影響もあってか、外部の方ともコラボレーションしやすくなりましたね。

十数年かけて創り上げてきたマーケットと違う場所で戦うのは、新鮮であり面白いです。新しく立ち上がったブランドの監修もしているんですよ。自分の能力を活かす場所が増えているのは、非常にありがたいことだと思っています。

—【松嶋】今後挑戦したいことがあれば、お話しいただけますか。

—【橋本】たくさんあります! その中でも、サスティナブルの領域はいつか挑戦したいですね。サスティナブルを謳っている企業も増えてきましたが、裏側を覗いてみると、逆に環境負荷が増えているのではないかと思うようなものもあります。

—【松嶋】服を作る際に使われる水の量やその水の処理方法、生地のもととなる素材を育てる際の環境負荷や労働環境など、さまざまな観点が必要ですし、サスティナブルを実現するのは、非常に難しいことだと聞きますね。

—【橋本】白か黒かで突き詰めていくと「新しいものを作らなければいい」となりますしね。しかし、それは現実的ではありません。

私が今考えているのは、リユースを前提に置いたブランドです。

もとの生地やデザインが優れている服は、時代が変わっても愛され続けますよね。その観点を活かし、消費者を巻き込んだ新しいエコシステムを作ろうと考えているんです。いつか事業化することを目指していますので、期待していてください。

—【松嶋】楽しみにしています。

—【橋本】ぜひ。実はそれ以外にも寝かせているアイディアがたくさんあって、今とてもワクワクしているんですよ。

—【松嶋】アイディアが湧いてくる秘訣があれば教えていただきたいです。

—【橋本】“不満解消”でしょうね。私は自分でコントロールできない状態というのが大嫌いなんです。何か不満があれば、それを解消するために行動を起こしてきました。

不満を解消すると言っても、自分の思いではなく、重視しているのは第三者やお客さまの視点です。“自分の損得勘定から生まれた不満”を解消するのは、ただのワガママですから。

関わる人全員が楽しくなるように考えて行動すれば、物事は自ずとうまく回っていくのではないでしょうか。

—【松嶋】とはいえ、橋本さんのように自分の意見を周囲に伝えて行動に移すのは、簡単なことではないように思います。

—【橋本】自信がない人が多いのかもしれませんね。私は根拠のない自信が昔からありました。最初の一歩を踏み出しさえすれば、きっと色々なことができるようになると思いますよ。

何か一言アドバイスするとしたら、「自分の仕事に誇りを持った方がいい」。私は常に第三者やお客さまのことを考えて仕事をしてきました。やりたいことはたくさんありますし、全てに満足しているわけではありませんが、自分自身がしてきた仕事については、誇りを持っています。

自分のやっている仕事が誰かの役に立っているという誇り、自信を持った上で、その先を見据えて日々を歩むことが大切なのではないでしょうか。