就職氷河期、ITバブル、上場、そして再独立──コネクトプラス柳生敏夫が語る「継続する経営」の本質とは

Sponsored by 株式会社コネクトプラス
Sponsored by 株式会社コネクトプラス

Interviewee

株式会社コネクトプラス 代表取締役社長

柳生敏夫

Yagyu Toshio

1999年〜2000年ITバブルの最中、ITベンチャー企業の取締役としてISP事業及びITアウトソーシング事業の立上げ、資本金10億円の資金調達から国内のPC・ネット環境設定企業200社を組織化し、全国中小企業のPC及びネット環境設定・4500件の案件を受注しインターネット黎明期における、国内企業のネット環境普及に貢献。2001年ウェブサイト制作・ITインフラ構築の会社を起業。コーポレートサイト、各種ECサイト及びポータルサイトの構築。大手マーケティング会社、ISP事業者のインフラ環境を構築。ガラケー向けサイトをキャリア・機種毎にコンテンツを自動生成するミドルウェア「EMPRESTO」の事業買収を行う。2008年株式会社ブイキューブにジョインしグループ会社の株式会社ブイキューブネットワークス代表取締役社長に就任。2013年ブイキューブ社の東証マザーズ上場を機に翌年、ブイキューブネットワークスを個人で買収し、社名を株式会社コネクトプラスとし、現在に至る。

就職氷河期の内定取り消しから始まり、ITバブルでの巨額調達、そして上場企業のグループ代表を経ての独立。激動のIT業界を四半世紀にわたり駆け抜けてきた、株式会社コネクトプラス代表取締役社長の柳生敏夫氏。

幾多の「修羅場」を乗り越え、上場という一つの到達点を経験した柳生氏が辿り着いたのは、地に足の着いた事業モデルへの執念と、リーダーに求められる「決断」の真理だといいます。

本稿では、困難を糧に成長を遂げた軌跡から、次世代を支える「伴走者」としての信念まで、柳生氏が歩んできた道のりとその思いに迫ります。

「単発より、継続」——コネクトプラスが選んだ事業モデル

ー【聞き手:岡崎美玖、以下:岡崎】まずは、柳生さんが代表を務める株式会社コネクトプラスの事業について、改めてご紹介いただけますでしょうか。

ー【話し手:柳生敏夫、以下:柳生】弊社の成り立ちと事業内容を簡単にお話ししますと、もともとは2001年に私が27歳の時に立ち上げた「株式会社エイアイエム」が前身になっています。

当時はITインフラの構築や、ウェブ制作、システム開発をメインに請け負う会社としてスタートしました。2008年には、縁があり「株式会社ブイキューブ」にジョインすることになりました。そこでグループ会社の「株式会社ブイキューブネットワークス」の代表取締役に就任し、親会社とともに上場を目指すというミッションを担いました。

ー【岡崎】グループ入りしてから上場、そして現在のコネクトプラスに至るまでには、どのような変化があったのでしょうか。

ー【柳生】2013年12月にブイキューブが上場を果たした後、翌年にMBOを実施しました。ブイキューブネットワークスの株式を100%取得し、社名を現在の「コネクトプラス」に変更して、改めて独立した形になります。

現在の事業内容も、基本的には創業時から一貫している「ITインフラ」「ウェブ制作」「システム開発」が柱です。ですが、私自身が経営において最も重視しているのは、単発の売り上げよりも「継続性」です。

例えば、100万円の単発案件よりも、月額1万円の継続収益(ストック)を大切にし、お客様のインフラ環境を定額でお守りするような、地に足の着いたビジネスモデルを中核に据えています。

また、現在は会社としての事業に加えて個人で7社ほどの企業で顧問を務めています。経営、営業、資金調達のサポートなど、これまで私が経験してきたことを活かし、若手経営者の伴走をすることも今のコネクトプラスの重要な活動の一部になっています。

1月、すべての内定が消えた——就職氷河期世代のリアル

ー【岡崎】柳生さんのキャリアを深掘りしていきたいのですが、そのスタートは1997年だとお伺いしました。どのようなスタートだったのでしょうか。

ー【柳生】まさに就職氷河期の真っ只中でした。氷河期の第一世代と言ってもいいかもしれません。当時は今の就職活動とは全く状況が違い、非常に厳しいものでした。

私もなんとか1社内定をいただいて、4月からの新生活を待つばかりだったのですが……1月になって突然、「内定取り消し」の連絡が来たのです。

ー【岡崎】なんと……!1月に内定取り消しというのは、あまりにも過酷ですね。

ー【柳生】今なら法的にも問題になるでしょうが、当時はそんなことがまかり通る時代でした。何も決まらないまま大学を卒業し、第二新卒枠で必死に再就職活動をしました。ようやく6月にウェブ制作やハードウェアを扱う会社に入社できたのですが、なんと入社1か月でその会社が親会社に吸収合併されてしまい、立て続けに足元を掬われるような経験をしましたね。

入社後は、吸収合併された先の小規模なプロバイダー部門に配属され、会員のサポート対応を任されたのですが、想像を絶する環境でした。会員数は千数百人いるのに、電話サポートができる人間は私一人。朝から夕方6時の受付終了まで、ひっきりなしに電話がかかってくるのです(笑)。

「インターネットに繋がらない」「設定がわからない」といった問い合わせを一人でさばき続け、電話が終わってからようやく自分のメインの仕事に取り掛かる。その結果、当時の残業時間は月に213時間に達していました。

ー【岡崎】213時間……! 当時、睡眠時間は確保できていたのでしょうか?

ー【柳生】土曜日も出勤していましたから、日曜日だけが唯一、家で泥のように眠れる時間でした。しかし、その厳しい環境で、ある上司から「柳生、頼まれ上手になりなさい」という言葉をいただきました。

「仕事を頼まれた時に、嫌な顔をせず気持ちよく受けてあげなさい。そうすれば、あの人に頼めば気持ちよくやってくれる、という評判が立つ。自然と君の周りに仕事が集まり、必要とされる人間になるんだ」と。

実際、社内だけでなく社外のお客様からも相談をいただけるようになり、仕事を通じて人との信頼関係を築くことの重要性を身をもって学びました。この「頼まれ上手」の精神があったからこそ、後の激動の時代も乗り越えられたのだと思います。

同い年の「社長」との衝撃的な出会い…起業家の道へ

ー【岡崎】その後、柳生さんは20代半ばで大きな転機を迎えられますが、起業という選択肢が現実味を帯びてきたのはいつ頃だったのでしょうか。

ー【柳生】そのプロバイダーの業務で、ウェブ制作を外部委託していた会社の社長二人と名刺交換をする機会がありました。名刺を拝見したところ、彼らが私と同い年であることに驚いたのです。

私はついこの間まで就職浪人をしていて今は月に200時間以上残業している一方で、彼らがすでに自立し会社を経営している、その事実に「自分と同じ歳で社長をやっているのか、起業という選択肢もあるんだ」と衝撃を受けたことは、今でもはっきりと記憶に残っています。自分の中の「安定した会社員でいなければならない」という固定観念が崩れた瞬間でしたね。

そこから、同い年の社長たちに誘われる形で転職し、1999年から2000年にかけての「ITバブル」に身を投じることになります。当時、中小企業にはまだインターネット環境が普及し始めたばかりで、需要は無限にありました。私が入ったことでネットワーク構築の事業部を立ち上げ、ITアウトソーシング事業を全国展開するスキームを作りました。

ー【岡崎】全国展開と非常に大きな規模ですが、どのように実現したのですか?

ー【柳生】まだ当時は情報のハブとなるようなサービスがなかったので、掲示板にお仕事を募集している旨を書き込み、全国の業者さんを集めました。リストは800社、契約は200社ほどまで広がり、一気に全国対応が可能になったのです。その実績が評価され、光通信さんなどから総額で10億円もの資金を調達することになりました。

ー【岡崎】26、27歳という若さで10億円を調達。組織の成長スピードも凄まじかったのではないですか?

ー【柳生】わずか4か月で社員は5人から100人まで増え、事務所の移転も追いつかないほどのスピード感でした。私は取締役として、自分の事業部だけで50人ものメンバーを率いることになり、週に4日は会社に泊まり込み、213時間残業が可愛く思えるほどの激務でした(笑)。就職できなかった人間が、今度は採用する側になるといった、激動という言葉でも足りないほどの日々でしたね。

……ですが、調達からわずか1か月後のことでした。ITバブルの崩壊が訪れ、受注件数は目に見えて減っていきました。新宿にあった事務所のメンバーがどんどん辞めていく光景は、今でも忘れられません。事業縮小の結果、残ったのは「調達したものの用途を失った数億円の資金」でした。

本来、その資金は次の事業に投資すべきものですが、一部の経営陣から、その資金を交際費として使おうという意見が出始めました。試算表を確認する度に、交際費が膨れ上がっていくのを目にして、取締役として「これは不適切な支出なのではないか」と、率直に異議を唱えたこともありました。しかし、創業当初からの仲間で構成された経営陣の中で、私の立場や役割が次第に難しくなっていったのを感じました。

潮時だと感じていた頃、社外取締役の年配の役員から「柳生、君の仕事ぶりは見てきた。私が資金面でも支えるから、起業してみてはどうか」と声をかけていただきました。この一言に背中を押され、2000年末に辞任し、翌2001年1月には自身の会社「株式会社エイアイエム」を立ち上げました。

「単発の100万円より、月額の1万円」

ー【岡崎】2001年にスタートした「株式会社エイアイエム」ですが、柳生さんが経営において最も重視したのはどのような点でしたか?

ー【柳生】何よりも「継続性」です。当時、多くのヘッドハンティングの誘いがありましたが、一つの会社に所属していては、その会社からの給料しか得られません。ですが発想を転換し、誘ってくれたすべての会社をクライアントにすれば良いと考え、私は共に働くことを選んでくれた3人の仲間と共に新たなスタートを切りました。

ー【岡崎】まさに逆転の発想ですね。

ー【柳生】立ち上げ当初は、ご祝儀的な受注もありましたが、ウェブ制作のような単発の案件はリスクだと捉えていました。50万円、100万円といった金額を得ても、納品後は次の仕事が保証されません。そのため、私は最初から、月額で安定した収益(ストックモデル)を積み上げることに徹底的にこだわりました。「単発で100万円を得るよりも、月額1万円の方が価値がある」という考え方です。

具体的にはデータセンターにサーバーを2台設置してスペースを借り、お客様のウェブサイトをホスティングするサービスを提供しました。固定費として十数万円の支出はありましたが、少しずつお客様を増やしていきました。結果として、2004年頃には月額収益だけで全社員の人件費を賄えるまでに至りました。

土台となる収益を安定させ、あとは単発の案件で利益を積み上げるというビジネスモデルを早期に確立できたことが、その後の成長の大きな要因となりました。

ー【岡崎】その安定した基盤があったからこそ、クライアント企業の急成長にも対応できたのですね。

ー【柳生】仰る通りです。あるお客様が2003年に上場された際、数百席規模の支店を次々と立ち上げることになり、私たちはその立ち上げに携わったのですが、一度に300台のPC設定を要する大規模な案件でした。大学生のアルバイトを20名集め、2日間で設定を完了させたこともあり、大変な作業でしたが、お客様と一緒に成長できた喜びは何にも代えがたい経験でした。

上場目前で訪れた試練——リーマンショックという現実

ー【岡崎】その後、柳生さんはブイキューブにジョインし、上場を目指すことになりますが、これはどのような経緯だったのでしょうか。

ー【柳生】当時、従業員が10〜20人と増加するにつれて、人を増やさなければ売上が伸びないビジネスモデルに限界を感じていました。「仕組み化」により、人員を増やさずに利益を最大化したいと考えていた時、ブイキューブ創業者の間下直晃社長と出会いました。彼の誠実な人柄と、弊社のインフラ技術との親和性を確信し、グループ入りを決断しました。

しかし、2008年、上場を目指して邁進していた矢先にリーマンショックが起き、上場直前だったブイキューブ本体が突如赤字に転落しました。売上も低迷し、証券会社からは「今は難しい」と見放される事態となり、結果として予定していた上場は白紙に戻り、社内も暗い雰囲気が漂っていました。

ー【岡崎】その困難な時期を、柳生さんはどのように乗り越えたのですか?

ー【柳生】私たちの部門はストックモデルを採用していたため、リーマンショック下でも赤字を回避できました。これがグループを支える重要な柱の一つとなりました。その後、ブイキューブ本体も数年をかけてサービス提供形態をオンプレミス型からSaaS型に転換し、収益基盤を強化する期間を過ごしました。

景気が回復し始めた2013年12月、当初の予定より数年遅れではありましたが、東証マザーズへの上場を果たすことができました。あの苦しい時期があったからこそ、盤石な組織が築けたと考えています。

1,400万円を7,000万円へ。2つの節目で通した経営者の「筋」

ー【岡崎】上場を経験された後、MBOを実施して再び独立されました。その背景には、どのような想いがあったのでしょうか。

ー【柳生】もともと2001年に起業したエイアイエムの時、ある株主の方に1,400万円ほど出資をいただいていました。その会社を離れる際、銀行のキャッシュも含めて7,000万ほど口座残高を残してお返ししたのです。7年間で1,400万円を7,000万円にしたので、投資利回りとしては非常に高いパフォーマンスでお返しできたと思っております。

その後ブイキューブが上場して、その翌年にブイキューブから株式を100%取得してMBOを実施しました。上場という一つの目標を達成したことで、改めて「自分はやっぱりオーナーシップを持ちたい。」と考えたのです。

ー【岡崎】「買い戻す」という決断には、並々ならぬ覚悟があったように感じます。

ー【柳生】代表取締役と、単なる取締役(平取)では、見ている景色が全く異なります。取締役時代は、代表に対して「なぜもっと別のやり方をしないのか」と不満をぶつけることも多々ありました。しかし、自分が代表の立場になってみると、事務所の経費、光熱費、社会保険料、そして何よりも社員の生活を守る責任など、すべてが自分の肩に重くのしかかってきます。

MBOによる独立は、すべての責任を再び自ら負うこととなります。安定した上場企業のグループ代表という地位を捨ててでも、私は自身の直感に従った自由な経営を望みました。そして、私を信じてくれた方々には、最高の形で報いることが「経営者としての筋」の通し方だと思ったのです。

KEYPERSONの素顔に迫る20問

Q1.出身地は?

茨城県の守谷市です。

Q2.趣味は?

お酒を飲みに行くことでしょうか。あとは、仕事自体が趣味です(笑)。商談でも笑いがない場は嫌いですし、仲間と一緒に楽しむ感覚が趣味に近いかもしれません。

Q3.特技は?

人の能力を見抜くことです。その人が何を求めているのかを察して「つまり、こういうことを言いたいのですね」と整理して伝えることが得意です。

Q4.カラオケの十八番は?

WANDSの『世界が終るまでは…』ですね。高校・大学とバスケットボールをやっていたので、やはり「SLAM DUNK」の影響は大きいです。

Q5.よく見るYouTubeは?

PIVOTやReHacQ、ABEMAなどのニュース・ビジネス系はよく見ます。

最近は、中国系のショートドラマに夢中になっています。あの赤裸々で独特な展開に引き込まれてしまい、時には課金してまで視聴してしまうほどです(笑)。

Q6.座右の銘は?

昔から「自由」という言葉が好きです。経済的な自由も、時間的な自由もです。

会社員時代、拘束の多い環境で薄給だった反動が、起業のきっかけにもなっています。

Q7.幸せを感じる瞬間は?

美味しいものを食べている時が一番幸せです。焼き肉やお寿司など、ジャンルを問わず、美味しい食事とお酒があれば最高ですね。

Q8.今の仕事以外を選ぶとしたら?

公務員になっていたかもしれません。

実は祖父が守谷で郵便局を創業した人物で「いずれは継げ」と言われて育ちました。その反動もあり、東京に出てきたという背景もあります。

Q9.好きな漫画は?

「ONE PIECE」です。大好きすぎて、お店を貸し切ってファンミーティングを開催するほどです(笑)。

Q10.好きなミュージシャンは?

BOØWYです。あの世代の格好良さには影響を受けていますね。

Q11.今一番会いたい人は?

福沢諭吉です。慶應義塾大学を創設し、あれほど強固な「三田会」という繋がりを生み出した人物が、どのような学びを経て何を考えていたのか、直接触れてみたいです。

Q12.どんな人と一緒に仕事をしたいですか?

基本的に真面目な人が望ましいですが、どこか「抜けている」一面も持っている人が良いですね。角がなく、一緒に楽しく仕事ができる方を求めています。

Q13.社会人になって一番心に残っている言葉は?

新卒時代の上司から言われた「頼まれ上手になりなさい」という言葉です。今でも大切にしています。

Q14.休日の過ごし方は?

散歩やお酒を楽しみつつ、自宅で飼っている2匹の猫(ラグドールとロシアンブルー)と戯れる穏やかな過ごし方が好きです。

Q15.日本以外で好きな国は?

べタですがハワイです。大学の卒業旅行で行った時の、あの悠々とした空気が忘れられません。

Q16.仕事の中で一番燃える瞬間は?

危機的状況です。たとえ全力を尽くしても乗り越えられるかわからない時こそ、実力以上の力が発揮されると感じます。

Q17.息抜き方法は?

散歩、お酒、猫。この3セットです。

Q18.好きなサービスやアプリは?

結局、Amazonが一番ですね。仕事道具から生活用品まで、つい頼ってしまいます。

Q19. 学んでみたいことは?

今の若い世代の考え方や人生観です。私とは全く異なる視点を持っており、そこから学ぶことは非常に新鮮で刺激を受けます。

Q20.最後に一言

ぜひ感想をいただけたら嬉しいです。また何か悩みや相談があれば、私と話すことで少しでも力になれたら嬉しく思います。

普通の学生が商売に目覚めた瞬間。原点は大学時代の「ノート販売」

ー【岡崎】数々の困難を乗り越えてきた経営者である柳生さんですが、学生時代からすでにビジネスの才能の片鱗を見せていたのでしょうか。

ー【柳生】私自身は本当に「ごく普通の学生」でしたし、将来は普通のサラリーマンになるだろうと考えていました。ですが、今になって振り返ると少しだけ「商売」の片鱗が見えたエピソードがあります。ある大学の試験期間中の出来事です。

当時、私は本当にお金がなくて、タバコを買うか、お昼を食べるか迷うような生活でした(笑)。そこで、タバコ代を稼ぐために始めたのが「授業のノート販売」です。授業に真面目に出席している学生からノートやプリントを借り、それを単にコピーするのではなくて自分なりに要点を絞り、試験対策に役立つように「加工」してまとめて販売していました。

ー【岡崎】なるほど……!単なる情報の転売ではなく、柳生さんが「編集者」となって付加価値を付けていたわけですね。

ー【柳生】そうです。試験前に、授業に出席していない学生たちにそれを販売するわけです。これがかなり売れました(笑)。 「何が求められているのか」を察知し、そこに独自の工夫を加えて提供し、対価を得る。この「情報の加工と提供」という一連のプロセスは、実は現在のITインフラやウェブ制作の仕事とも、本質的な部分で深く繋がっているのです。

相手の困りごとを解決することが、結果として自分に利益をもたらすという教えを、大学時代のキャンパスで学んでいたのだと思います。

経営者に必要な能力は「判断」と「決断」

ー【岡崎】長年にわたる経営経験を通じて柳生さんが考える「リーダーに不可欠な資質」とは何でしょうか。

ー【柳生】私が常に意識しているのは「判断」と「決断」を明確に区別することです。この二つは似ていますが、全く異なります。

「判断」は、データ、市場規模、数値的根拠といった合理的な情報に基づき、論理的な答えを導き出すもので、AかBか論理的に考えれば答えは明らかになります。しかし、経営においては、それだけでは対応できない局面が存在するのです。

「決断」とは、データが「リスクが高く、やめるべきだ」と示している状況下であっても、「私はこの道を選ぶ」という強い意志を持って決定を下すことです。例えば、創業直後で資金繰りが厳しい時に、大きな案件が舞い込んできたとします。これを受ければ資金がショートするリスクはありますが、断れば大きなチャンスを逃す……といった局面で「資金は何とかする、この案件は受注する」と腹を決めることです。まさに合理的な判断を超え、経営者に求められる「決断」です。

ー【岡崎】実際に直面すると非常に難しい決断となると思いますが、その「決断」に至る上で、最も重要視される要素は何でしょうか。

ー【柳生】最終的には自分の「直感」を信じられるかだと思います。若い頃は経験の幅を広げるために苦手な人と付き合うことも勉強になりますが、経験を重ねた今、人に会った瞬間に感じる「この人とは合わないな」という直感はほぼ間違いなく当たります。違和感を覚える相手との協業は、良い結果は生まれません。自分の直感を信じ、それを判断基準にできるかどうかが、リーダーとしての分かれ道になると感じています。

ー【岡崎】現在は自社の経営だけでなく、7社もの企業で顧問を務められていますが、柳生さんが「この会社を支援しよう」と決める際の判断基準はどこにあるのでしょうか。

ー【柳生】私が顧問先を選ぶ際の明確な基準は「その事業がどれだけ際立っているか(尖っているか)」です。

例えば「ウェブ制作をしたい」というご相談を受けても、原則としてお断りします。ウェブ制作は立派なビジネスですが、私のリソースを投じる意味がないからです。私が強く惹かれるのは「まだ日本で成功するかわからないが、この分野では国内唯一」「このニッチな領域でどうしてもトップを目指したい」といった、強烈な熱量を持った事業です。

自分だったらこの尖った強みを、どうすれば世の中に最大限広げられるかを考え、実行に移すことこそが、今の私にとって最大の楽しみなのです。

ー【岡崎】事業の「独自性」ですね。もう一つの基準は何でしょうか。

ー【柳生】「社長の人柄と覚悟」です。これに尽きます。

結局、ビジネスの最終的な決め手となるのは「人」です。社長自身がどれだけ本気で、腹を括って事業に取り組んでいるかを見ます。

直感は論理で説明できるものではありません。直接お会いして話す中で「この人は決して途中で投げ出さないな」という強い覚悟が伝わってくるかどうかが全てです。

逆に、どれほど事業計画が立派であっても、社長の言葉に重みが感じられなかったり、どこか他人事のように聞こえたりする人は、直感的に見抜けます。そのような方とは、たとえ好条件を提示されても、私は仕事をしません。これまでの経験から、違和感のある相手と組んでも良い結果は得られないことを、痛いほど知っているからです。

ー【岡崎】その「直感」は、やはり数々の失敗や成功を繰り返してきたからこそ、磨かれたものなのでしょうか。

ー【柳生】そうですね。若い頃は、様々な人と付き合うのもいいと思います。それも一つの修行ですから。ですが、30代後半から40代以降は、自分の直感を信じていいと思います。

会社が傾く原因や人が離れていく理由を、身をもって理解しています。その経験を、挑戦している若手経営者に提供したいと考えています。経営者同士の「壁打ち」を通じ、彼らの決意と覚悟をさらに強固なものにすることこそが、今の私にとって最も価値のあるビジネスだと思っています。

先頭に立たないリーダーへ——次世代に託すバトン

ー【岡崎】今後の展望としては、どのように描かれているのでしょうか?

ー【柳生】自らが先頭に立って指揮を執るというよりも、志を持った経営者が成長していく過程で、彼らを後押しし、進むべき道を示す「伴走者」としての役割を果たしたいですね。目指すのは「ONE PIECE」のシルバーズ・レイリーのような存在です。

現在は顧問という立場だけでなく、あえて一プロジェクトの現場メンバーとして動くこともあります。それは、経営者の視点ではなく、現場の若い世代が何を考え、どのような人生観を持っているのかを学ぶことが本当に楽しいのです。

自分一人では達成できないことも、誰かと繋がり、コネクトすることで形になっていく。この「誰かと繋がり、形にしていく」という願いこそ「コネクトプラス」という社名に込めた私の想いでもあります。

ー【岡崎】最後に、読者にメッセージをいただけますか。

ー【柳生】雇う側、雇われる側、どちらの立場であっても「人は一人では何もできない」ということを理解することが大切です。そして、自分の直感を信じ、全力で目の前のことに取り組んでみてください。良い経験も、一見マイナスに思える経験も、全てはあなたの成長の糧となります。

我慢して可能性を閉ざすよりも、やりたいことに飛び込んでみてください。生きることそのものが学びだからです。もし進むべき道に迷うことがあれば、いつでも相談に乗ります。


【クレジット】
取材・構成・ライティング/岡崎美玖 撮影/原哲也 企画/大芝義信

Company

株式会社コネクトプラス

〒102-0083 東京都千代田区麹町2-10-3 EXPERT OFFICE 麹町3F

システム開発事業
サーバーホスティングサービス事業

https://connectplus.jp/corporate/overview.html