“正解の先を求めるデザイン”を
テラスハウス卒業後の半田悠人が語る|前編

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Profile
プロフィール
氏名 半田悠人
会社名 株式会社デリシャスカンパニー
略歴 幼少のころに見た大工さんに憧れ、挫折と紆余曲折を経た後、建築の道へ進む。テレビ局勤めになった親友に口説かれ『テラスハウス: Boys & Girls in the City』に参加し、現在も建築家として数々のプロジェクトを手がける。
Interviewer
Masahira Tate
Masahira Tate

気鋭の建築家として活躍する半田悠人(はんだ ゆうと)さん。彼は起業家であり、デザイナーであり、リアリティー番組『テラスハウス: Boys & Girls in the City』のメンバーでもあります。番組で見せた洗練された立ちふるまいから“ミスター・パーフェクト”と呼ばれることもある半田さんですが、実はたくさんの挫折を経験してきたそうです。今回はそんな彼のリアルな姿に迫るべく事務所におうかがいしてじっくりとお話を聞いてきました—【前編】。

—【聞き手:楯雅平、以下:楯】本日はよろしくお願いいたします。今日は全方位で半田さんに迫るということを目指して子供時代から学生時代、もちろん『テラスハウス』についてもですが、それ以外の建築のお仕事についても、たくさんお話しいただければと思います。

【話し手:半田悠人(敬称略)、以下:半田】わかりました、よろしくお願いします。

<幼稚園児が憧れたのは大工さん>

—【楯】まずは子供時代のことについておうかがいします。かなり早くから建築に興味を持たれていたそうですが……?

【半田】はい、幼稚園の頃からですね。当時、通うことになった幼稚園がまだできたばかりで、僕はそこの1期生でした。入園したときに庭園の置物がまだ完成しておらず、大工さんの手伝いをするという体験をしました。まだ、半分準備期間のような状態だったこともあって園児5人に対して先生が8人もいるという環境でしたね。それで、3歳なのにノコギリを持たせてもらえて、木を切らせてもらったりしていました。そんな中で、子供心に「大工さんってかっこいい」と思っていたのです。周囲には「大人になったら大工さんになりたい」と言っていましたし、それが建築という道に進むきっかけになっています。

—【楯】素敵な幼稚園ですね。ご家庭の教育方針も自由だったのですか?

そうですね。家庭はとても自由で「勉強しろ」と口うるさく言われたりはしませんでした。逆に「好きなことをなんでもやっていいよ」という感じでした。同時に「人としての正しさ」という事には対しては強い信念を持った親で、そこからたくさん学ばされたことがあります。背中でみせる、というか行動で教えるというか……知らないうちに教育をされていたのだな、と思います。父が人と人との関係性を大切にしていたので、僕もそれに影響を受けました。父は騙されても恨みはしなかったですし、いつも人のために行動をしている人なのでとても尊敬しています。

—【楯】そうだったのですで。では、青年時代は優等生タイプだったのですか?

【半田】中学の勉強は高校と比べるとかんたんじゃないですか。それで、調子に乗っていた部分がはあったかもしれません。でも、その一方で、幼稚園のときに大工さんに憧れてから中学生になるくらいまで『LEGO』でずっと遊んでいました。お小遣いのほとんどを『LEGO』に使っていて、一人遊びばかりしていました。

その後は湘南高校に入りました。当時、県立では一番の優秀な高校だったので、入学して周りの頭の良さにビックリしましたね。大学の志望校は東京大学の建築と、東京藝術大学の建築、2つを目指していました。でも、高校が楽しすぎて道を逸れまして(苦笑)……結果、一番ラクといわれていた私立文系コースにしか進めませんでした。本を読むのも好きだったので、もともと哲学か建築かで迷っていて、哲学へ進むことにしたんだと自分に言い聞かせていました。それで、ギリギリ早稲田だけ受かって入学しました。受験勉強は高校3年の10月から始めたので、本当にまぐれというか、ラッキーだったとおもっています(笑)。

<世界史の歌>

ちなみに、僕の勉強法はちょっと変わっていまして、暗記物を歌で覚えていたんです。その頃はバンドをやっていて、歌だと英語の歌詞が覚えられたのですよね。それで「歌にすれば何でも覚えられるんじゃなか?」と思いまして。そこから、受験用に100曲くらいつくりました。例えば、世界史で覚えなければならない年号や時系列を歌詞にしてメロディーをつけていました。「東南アジア史の歌」とかをつくって、それをずっとギターを弾きながら歌っていました(笑)。

歌をつくる前、高校3年の10月でセンター模試を始めて受けた時に世界史は5点と悲惨だったのですが、世界史の歌を作って歌い、録音して1.5倍速で聞き続けていたら満点がとれました。

—【楯】ちょっと、いま歌っていただけますか?

いやー、それはカンベンしてください。自分のためだけに作曲したモノですし、シモネタ満載なのでヤバいです(笑)。。

—【楯】わかりました(笑)。ちなみに、当時はどんな音楽を聴いていましたか?

銀杏BOYZやゆらゆら帝国が好きでした。あと、世代ではありませんがNirvana(ニルヴァーナ)とかGOING STEADY(ゴーイング・ステディ)のファンでしたね。あと、The Ordinary Boysが来日したときに、友達みんなでチケットを買って行こうとしたのですが、チケットを買った友達が券を全部無くして、みんなライブに行けなかったという思い出もあります(笑)。

ちなみに、ファッションはすごく細い眉毛で、太いズボンを履いている感じですね。しかも、ずっと金髪でした(笑)。

<ダメだとわかっていても、がんばれなかった>

—【楯】半田さんは人生で壁を感じたことはありましたか?

【半田】子供のころから挫折はたくさん感じていました。小学校は6年間サッカーをやっていたのですが、一向にうまくならず、ずっとベンチでした。親からも「やめたら?」と言われるくらい下手でした。でも、努力もしなかったのですよね。がんばれない自分に対して悔しい思いをしていたのですが……その思いを言葉にする力もなく、チームメイトが試合をしている中でベンチで砂を盛って蟻の巣を作って遊んでいました。野生児だったので、試合中にすぐ川へ魚をとりに行ったりとかもして(笑)。大人にダメだよと言われてもなおせない、自分でもダメだとわかっていてもがんばれない、そのこと対してつらく感じていました。これが少年時代に感じた挫折のひとつですね。

学生時代の挫折は芸大に行きたいと思っていたのに、挑戦をしなかったことですね。昔の自分は周囲に流されてしまうところがあり、妥協してしまう面があって……これもある種の挫折経験です。

—【楯】大学へ入られてからのエピソードをお願いします。

【半田】僕は典型的な根暗で、大学2年終わるまで友だちがほとんどいませんでした。サークルには入らず、学校の外でバンド活動をしていました。あとは、とにかくアルバイトをしまくっていました。どれも勉強になりましたが、高田馬場駅前の焼肉屋でのアルバイトはなかなか思い出深いです。人生を知れたというか、思い出がたくさんあります。お店には今でも客として行きますよ。

あとは、警備員のアルバイトを5年間していました。ここでは何もしないことのつらさを知りました。勤務地が皇居のすぐ近くだったので治安は日本で1番良い場所だと思います。だから警備員といっても、ただ立っているだけですよ。まぁ、でもこれは本当の意味での考える時間になったので良かったのかな(笑)。自然が豊かな場所でもあったので小鳥のさえずりをききながら思索にふける……今で言うマインドフルネスだったのかも(爆笑)。

その他の生活では、遊ばず、飲まずで彼女もずっと居ませんでした。みんなが遊んでいるなかで、図書館で本を読んでいるのがカッコいい、みたいな斜に構えたヤツだったのです。でも、早稲田に入った時から「やっぱり芸大を受けよう」と思って準備しながら、並行して大学に通っていました。4年生が終わった時に受験をして……でも、芸大には落ちるという(苦笑)。かなりショックでしたね。3月11日の東日本大震災がって、その2日後に合格発表、というか僕にとっての不合格発表がありました。本当にどうしようかと思って、途方にくれました。何ももたないフリーターになったのですよ。いまはその1年があってよかったなと思いますが、当時は本当につらかったですね。

この頃は自分の力にまったく自信が持てませんでした。早稲田受験もそうですが、実力だとは思っていないのですね。小中高とリーダーになることが多く、部長とか生徒会長とか全部やらされてきましたが自分の実力と持ったことはありませんでした。それを変えたくて、芸大に落ちて、一浪して何ももたないフリーターとしてやりながら、絵を描きまくって、誰よりもうまいと言われ「お前は絶対に受かる」と周りに言ってもらえるようになるまでがんばりました。

<他人とちがっていたい>

—【楯】リスキーな道を進もうと思えた理由、踏ん張れた原動力は何だったのでしょうが?

【半田】これはアーティスト全般に言えることだと思いますが“カッコつけ”です。正直にいってしまえばそれだと思います。人とちがう自分が好きなのです。それを認められない人はダメだと思いますよ。僕は人とちがっていたい、という思いが昔からありました。子供のころからそれが顕著で、友だちが同じものを買っただけで「もう持ちたくない。捨てたい。僕が見つけたものだったのに!」という感じでした。誰しもこういう感覚があると思いますが、そういう思いが極端に強い人が、リスキーな道へいくと思います。芸能の方向へ行く人もいれば、ものづくりへ向かう人といろいろですが……僕の場合は建築でした。人とちがうことをする、大勢の人とはちがう方向に進むというのは時につらくもありますが、僕はこれで充実感が得られます。

—【楯】芸大時代はいかがでしたか?

【半田】僕は友だちにも恵まれて、これまで楽しくやってきたので、制作に集中しようと思っていたのですが……そういうわけにもいきませんでした。大学2年になって、大学の文化祭『藝祭』の委員長をやることになりました。立候補をしたわけではないのですが、周りからすごく頼まれて担当しました。大変でしたが、大成功を収めましたね。初めて企業協賛を大学に認めさせて、スポンサー費をいろいろな会社からいただきました。上野公園をオリンピック誘致のための文化事業という名目でタダで借りて、特設ステージも立ててU-zhaan(ユザーン)などのアーティストを呼んだり、野外オーケストラを企画したり、ほんとうにいろいろやらせていただきました。上野公園は東京都の管轄なので、そのご縁で東京都が関係する仕事をさせてもらったりもして、就職しなくていいやとなって、今に至るという感じです。

後編に続く » » »

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会社情報
企業名 株式会社デリシャスカンパニー
所在地 東京都荒川区
業種 建築、設計、グラフィックデザイン、など
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