経営者からハイブリッド・サラリーマンへ、バチェラー小柳津林太郎が拓く表現者の時代

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氏名 小柳津林太郎
肩書 株式会社GHOST CEO
略歴 少年時代をアメリカで過ごし、慶応大学では英語演劇に打ち込む。新卒でサイバーエージェントの広告部門に配属された後、フィーチャーフォン向けウェブサイトの制作やソーシャルゲーム開発の子会社を率いる。『バチェラー・ジャパン』で2代目バチェラーに抜擢され、現在は“ハイブリッド・サラリーマン”として、サイバーエージェントに所属しつつ「表現者としての大成」を目指して、芸能活動に挑戦中。

容姿端麗で高学歴、高収入の独身イケメンとの結婚を目指して美女20人が恋愛バトルを繰り広げるAmazon Prime Videoの恋愛リアリティ番組『バチェラー・ジャパン(The Bachelor Japan)』。その2代目バチェラー小柳津林太郎さんに、アメリカで過ごした少年時代や、サイバーエージェントでビジネスパーソンとして頭角を表すまでのストーリー、会社勤めをしながら「表現者としての大成」を目指すというハイブリッドな生き方などについて、じっくりとお話をうかがいました。

小柳津林太郎

—【聞き手:楯雅平、以下 楯】私たちはインタビュー・メディアの『ザ・キーパーソン』と申しまして、会社やコミュニティにインパクトを与えるような働き方や生き方をされていらっしゃる方を訪ねて、直接お話を聞いて記事を書いております。

今回は、小柳津さんの『バチェラー・ジャパン』に関するエピソードに加えて、生い立ちから、学生、社会人、経営者時代のエピソード、そして将来の展望などをお話しいただければと思います。

【話し手:小柳津林太郎、以下 小柳津(敬称略)】わかりました、よろしくお願いします。

1日に4〜5回、街で声をかけられる

小柳津林太郎

—【楯】いつもはインタビュー対象の方の生い立ちからスタートして時系列に沿ってお話を聞くのですが、今回はやはり『バチェラー・ジャパン』の話題から始めない訳にはいかないかなと(笑)。番組に参加されて、いかがでしたか? きっと「街を歩くと、声をかけられる」レベルの有名人になっていると思いますが?

—【小柳津】街で声をかけていただくことは、1日に4〜5回ありますね。そういう時は「番組を見ていただいたのだな」という感謝の気持ちが湧いて、嬉しいです。声をかけてくださる人で変な人はいないですし(笑)。

そんなこともあって、最近は「いつも誰かに見られているかもしれない」という意識を持たないといけないと思うようになりました。会社に居ようが、外に居ようが、旅行をしていようが「ちゃんとした格好、ちゃんとした振る舞い」をしなければいけないと気を引き締めています(笑)。

「イケてるヤツ」の定義

小柳津林太郎

—【楯】『バチェラー・ジャパン』の初代バチェラー久保さん、2代目の小柳津さんを見ていると、この番組に抜擢される方は外見も中身も本当に魅力的で、まさにイケメンなわけですが、そんな小柳津さんからみて「これからの時代のイケてるヤツ」というのはどのような人物ですか?

—【小柳津】イケてる人ですか?(笑)。ひとつ定義するとすれば「同性にモテる」ことでしょうか。異性よりも、同性の仲間が多いという感じで、慕ってくれる後輩がいるとか、先輩に可愛がられるとか、そういった同性に好かれる人が「イケてる」人だと思います。

あと、人生全般で「リスクをとって、チャレンジ出来る人」がイケてると言えるのではないでしょうか。『バチェラー・ジャパン』への参加を例に考えても、無難な人生をおくっている人は、そもそも選ばれないと思います。久保さんは自分で事業を起こされていますし、私もサイバーエージェントで十億円単位の投資をする新規事業をやらせていただいてきましたので、リスクをとってきたと言えると思います。

あとは……幻冬舎の見城徹さんが「顰蹙(ひんしゅく)は金を払ってでも買え」とおっしゃっていて、僕の会社の社長(藤田晋さん)もこの言葉を言っていました。私もこの言葉が好きで、人と違ったことをやる、反対意見があっても勇猛果敢にチャレンジする、そういう姿勢や生き方が「イケてる」のではないかと思います。

—【楯】いまのお話では、「リスクをとる」という事がキーワードになっていたと思います。ご自身が「大きなリスクをとった」エピソードを教えてください。

—【小柳津】サイバーエージェントの新規事業として、スマホゲームを作るために2012年に渡米し、1人でニューヨークに行って子会社を作りました。MLB、NBA、NFLといったアメリカのスポーツビジネスのライツをお借りして、日本とアメリカ向けにゲームを作るという、とてもお金のかかるチャレンジでした。会社としては長期契約で、累計で数十億円の投資でした。でも、このアメリカでの事業は失敗してしまい、半年で日本に帰るという……これは大失態でしたね。

小柳津林太郎

会社のお金はすごく尊いものなので「数十億円溶かしてしまったからには、回収するまで絶対この会社を辞められない」と思いました。印象に残っているのは、社長や当時の副社長が「これは役員会でも決済しているのだから、お前だけのせいじゃない。次、がんばれ」と言ってくれたことです。本当にありがたくて「これは、この会社に骨を埋めるしかないな」と思いました。

—【楯】失敗してもなお、上司からの信頼が厚いというのは、先の「同性にモテる」という話に通じるモノを感じますね。外見、上辺の話ではなく、「この人なら……!」と信頼してもらえるというのは、並大抵のことではありませんから。「イケてる」という言葉で表現すると軽すぎますが、真の意味での「イケメン」というか「モテ」要素の根底には、こういった芯があるということかもしれませんね。

京都生まれ、ニューヨーク育ち

小柳津林太郎

—【楯】さて、そんな小柳津さんですが、話をググッと昔に戻して、生い立ちや少年時代のお話を聞かせてください。変わった名字ですが、差し支えなければルーツを教えていただけますか?

—【小柳津】静岡県焼津市の中に小柳津という地名がありまして、そこに縁のある名字です。静岡県や愛知県ではそれなりに聞く姓のようでして、僕の先祖代々のお墓も愛知県豊橋市にあります。祖父の出身がそこで、僕の認識しているルーツもそこになるわけです。いまでも豊橋にはお墓の掃除とかで、半年に1回くらいは行っていますよ。

—【楯】ご出身も愛知ですか?

—【小柳津】いえ、生まれが京都で、6歳まで大阪でした。6歳から14歳まではニューヨークで、14歳から18歳まで大阪、18歳からは横浜でした。そして、いまは東京が拠点ですね。

—【楯】子ども時代はどんな感じでしたか?

—【小柳津】親が言うには「あまり家に居ない子どもだった」みたいですね。勝手に外へ出ていって、友だちと電車で遊びにいっちゃうという感じで、幼稚園のころからそんな子どもだったらしいです。まぁ、6歳より前の記憶って、大人になるとあまり残っていませんが……『キャプテン翼』の影響でサッカーが好きだったことは覚えています(笑)。あとは、水泳などの習いごとをやらせてもらっていました。スポーツ少年とまでは言いませんが、ワンパクな子どもだったと思います。

—【楯】その後は、6歳から渡米されていたそうですが、その頃はどんな生活でしたか?

—【小柳津】はい。父親が医者でして、研究者としてHIVの治療薬を開発する目的で渡米し、大学病院でずっと研究をしていました。そのおかげで、私はかれこれ8年半ニューヨークに住んでいました。最初は英語がまったく話せなかったので、1年間くらいは「日本に帰りたい!」と泣いたり叫んだりしていましたが(苦笑)、英語ができるようになって、友だちが増えると、どんどん向こうの生活が楽しくなっていきました。 小柳津林太郎

アメリカで良かったのは「個性的であることが普通」だったということですね。皆が「右へならえ」でなく、ひとりひとりがユニークであることが認められている環境でした。それが、居心地の良さにつながっていたと思います。

あとは、取り組むスポーツが季節ごとに別れているのも楽しかったですね。日本だと、基本的にその部活を選ぶとそれだけをずっとやるじゃないですか? 例えば、高校でバスケットボール部に入ったら、3年間はほぼバスケしかしません。一方で、アメリカは、秋はアメフト、冬はバレーボールとバスケットボール、春は野球かテニスをやる、というのが普通です。僕は、野球、サッカー、テニス、バスケ、アメフト、アイスホッケーなどのたくさんのスポーツをやっていました。

そんな感じで、部活のある日は部活へ行って、無い日は友だちとピザを食べて、ストリートでバスケをして、という感じの生活でした。すごく楽しい小学校、中学校時代でしたね。基本は現地の学校へ通っていましたが、土曜日だけ日本語クラスの補習に行っていました。午前中から昼過ぎまで勉強をして、その後は日本人の友だちの家で「お泊り会」をしていました。そこで日本の漫画を読んだり、ゲームを遊んだりするのが楽しみでしたね。

マンガ・ゲーム好きだった少年時代

小柳津林太郎

—【楯】どんな作品が好きでしたか?

—【小柳津】こういう話をインタビューで答えるのは初めてかもしれません(笑)。小学生の時は、コロコロコミックやボンボンで『おぼっちゃまくん』や『ドッジ弾平』を読んでいました。そこから『週刊少年ジャンプ』へ行って、1987年からずっと読んでいます。いまだに『少年ジャンプ』を読んでいて、『ヤングジャンプ』には進めていません(笑)。当時のお気に入りは、マンガでいうと『ジャングルの王者ターちゃん』『ドラゴンボール』『ジョジョの奇妙な冒険』『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でしたね。あとは……『電影少女』も好きでした。『I”s(アイズ)』のちょっと前の作品ですね。『クッキングパパ』は家族で読んでいましたし、いろいろなジャンルを読んでいたほうだと思います。

当時のアメリカでも日本のマンガやアニメは1週間遅れで手に入りましたし、ゲームは日本に居た祖母に送ってもらっていました。アニメはVHS(ビデオテープ)で、ゲームはカセットという時代、CD-ROMがでてくる前ですよ。

ゲームは『ドラゴンクエスト』シリーズとか『ファイナルファンタジー』シリーズをプレイしていました。あとは『スーパーロボット大戦』も大好きでした。シリーズごとに新しいキャラが出てくるので、それを見て「このキャラはなんだろう?」と興味をもって、そこからアニメを見るというサイクルがありました。『エヴァンゲリオン』『コードギアス』『エウレカセブン』あたりは全部、スパロボがきっかけでアニメを見た作品ですね。いや、ほんと、こういう話をするのは初めてです(笑)。

日本で受けたカルチャーショック

小柳津林太郎

—【楯】日本へは中学校3年生の時に戻られていますね? 日本のコンテンツに触れる機会はあったにせよ、学校や社会の文化はかなり違うと思いますが、戸惑いはありませんでしたか?

—【小柳津】学校の雰囲気に関しては相当に振れ幅が広かったですね。アメリカだと自由に毎日友だちと「ワーキャー」言いながら、楽しく生きていましたが、日本ではゴリゴリの体育会系、縦社会に放り込まれました。中高ともにPL学園だったので、めちゃくちゃ厳しい寮生活で、週6で部活、外出できるのは月1回という生活です。服装も、ジーパンはダメ、Tシャツは白黒ワンポイントしかダメという……「いつの時代のルールやねん!」と言いたくなるほど厳しい学校でした。これには、完全にカルチャーショックを受けましたよ。

あと、10人部屋で寮生活をしていたので、プライベートの「プ」の字もありません。毎朝6時半に起床のベルが鳴り、7分間でグランドに集合してトラック1周、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「失礼します」「失礼しました」と挨拶の練習をする、という生活ですよ。あとは、トイレ掃除や床磨きを年間300日くらいやっていましたので、そういった環境で鍛えられました。

先輩後輩の上下関係だけでなく、同級生の中でも権力争いがあって、スポーツが強いやつが権力を持っている社会の中で個性を殺して生きざるをえなかったという感じです。僕は、なんというか「平民」的なポジションで、存在感を消して生活していましたね(苦笑)。

つらくて、何度もやめようと思いましたが、弟が2学年下に居て、卒業生に親戚が何人もいたので思いとどまりました。高校には2度と戻りたくはありませんが、あの生活があったおかげで理不尽さやキツイ環境に対しての耐性がついたことには感謝しています。

演劇で「表現者」として目覚める

小柳津林太郎

—【楯】そこから、また一転して自由な雰囲気の慶応大学に進まれたわけですが、そちらでの生活はどんな感じでしたか?

—【小柳津】大学は自由でした(笑)。英語も喋れるし、目立ちたいなと思って慶応のESS(English speaking society、英会話部)に入って、そこで初めて英語劇に出会いました。アメリカで自由にやっていたところから、高校はめちゃ厳しく、大学へ入ってからはまた変わっていることが良しとされる場所になり、という振れ幅の広い人生です。それから大学生の間はずっと演劇に没頭していました。

僕が居た演劇サークルは150人くらいで、全員が4ヶ月ほどで一つの舞台を作り上げます。僕の時は大道具50人くらい、小道具30人くらい、照明、音響、コスチューム・メイクアップがそれぞれ7~8人で、役者もだいたい7~8人くらいでした。その中でメインキャストを担当させていただいていたので、皆の努力を背負っているというプレッシャーはありました。

ちなみに、演劇部というとソフトな文化系のイメージですが、実際は相当な「スポ根サークル」で、練習が終わったら22時くらいに日吉キャンパスで円陣をくんでダメ出しをするような集団です。ミスると「オメーのせいで負けたらどうするんだ!」とツメられ「フザケンなよ、先輩だからって調子に乗ってんな」と言い返すみたいな感じです。話を聞くだけでは、あまり想像がつかないと思いますが(笑)、本当にそんな世界なんですよ。

そういった日々を経て、年に1度の四大学英語劇大会での優勝を目指して皆でがんばっていました。僕が出たのは1年目と3年目の時で、総合優勝できました。この大会の賞には総合優勝、ステージエフェクト賞、英語コミュニケーション賞の他に、個人に贈られるベストパフォーマー賞というのがあって「お前ならベストパフォーマー賞が取れるよと」言われてましたが、結局取れませんでした。賞を取りたい、取りたいと固執すると、力んでしまってダメになるという感じです。その時は”子ども”だったので、個人賞を取れなかったのが本当に悔しかったですね。「個人賞を取れなかった」という不甲斐なさは、当時の自分には相当なダメージで、社会に出たらボコスカ働いてこの思いを払拭したいと思っていました。

「俺の会社は俺の芸術作品」と言った人

小柳津林太郎

—【楯】そうして入社されたのがサイバーエージェントですよね? この会社を選ばれた理由は?

—【小柳津】浪人も留年もしていたので、俳優を目指すか、社会人になるか迷いました。広告代理店で働いていてミュージシャンになったスガシカオさんや、役所で働いていた役所広司さんの話は知っていたので、1回社会人をやってみて、そこから俳優になろうかなとか思っていました。なので、「ビジネスマン役をやるにも、1回本当のビジネスマンをやっておいたほうがいいだろう」くらいのテキトーな気持ちで就活をしていました。

サイバーエージェントは、演劇仲間から「セミナーが面白いところがあるから、ヒマだったら行こうよ」と誘われたので行ってみたのです。実際に行った感想は、ITはよくわからないけど、ノリが良さそうな会社というくらいでした。そんな感じで、本当にテキトーだったのですが、最終面接で藤田社長に「表現者として大成したい。死ぬまで表現を追求したい」と伝えました。すると、彼は「表現者になりたいなら、経営者になればいい。俺は会社を通して、社会に表現しているよ。会社は芸術作品だと思っているから」と答えてくれて、「なるほど、その手があったか!」と。これに感化されて「配属はどこでもいいです。どこでもがんばります」とお伝えして、サイバーエージェントに入りました。

その結果、広告代理店部門のマーケティングプランナーとして配属されました。立ち上げ部署だったので、そこから2年間は必死で働いていましたね。当時の上司は、現在の取締役をしている人で、とても気合の入った方でした。毎日深夜2時半くらいに帰りながら「広告の仕事が楽しくなってきました。がんばろうと思います」と伝えると、「がんばる、がんばらないではなくて、1回骨を埋めてみろ。俺は広告に骨を埋めすぎて他の業界なんかにいけない。お前も、後戻りできないというところまで1回やってみな」と言われて、そこからマーケティングの世界に没頭していきました。

入社2年で子会社の社長になる

小柳津林太郎

—【楯】そこでの働きが評価されて、子会社の代表に抜擢されたという流れですよね?

—【小柳津】2年目の3月あたりに社長に呼び出されて「今度新しく会社をつくるけれど、社長をやってみないか?」と言われました。僕が「いまは広告がとても楽しいので、1週間考えさせてください」と言うと、「明日までにして。明日までに決断出来ないやつは、一生決断できないから」と言われました。それですぐ、当時の上司に相談したら「お前が代表をやるなら、いいんじゃない」と言ってもらえたので、2年目の3月からインハウスベンチャーの社長をやらせていただきました。それで、3年で辞めるつもりだったけれど「社長をやれるなら、30歳まで延期で!」ということにしました(笑)。ちなみに、3年で社長というのは、同期の中ではいちばん早かったか、2人めくらいでした。いま考えると本当にありがたいことです。

—【楯】その会社ではどのようなことをされていたのですか?

—【小柳津】フィーチャーフォン向けのウェブサイト制作をしていました。お客さんのところへ代理店と一緒に営業に行って、企画提案をし、受注をしたら、作って、納品という流れです。社員は20名くらいで、1年半ほどやって黒字化しました。当時の僕は経営者としてはまったく経験が無かったですし、ひたすら「作って、納品して」を繰り返しても、ケータイ向けサイトは単価が低いので、事業規模の拡大には限界を感じさせられていました。

「これを上場企業の子会社としてやる意味があるのかな」と悩んでいた時に、mixiやDeNA、GREEがソーシャルゲームを手がけ始めて、パートナーを募集していました。ゲームをどうやってつくるのかわからないという状態でしたが、ゲーム事業にピボットすると決めました。いま、サイバーエージェントグループでゲーム事業に携わっている人は有期雇用を含めて3,500名位ですが、僕は10数名くらいしかいない頃からゲーム事業に携わっていました。運良くひとつめとふたつめのゲームが当たって「こんなに収益が出るんだ」と驚きました。

ひとつめはmixiでやっていた『星空バータウン』で、これはバー経営のゲームです。SNSの友だちに遊びにきてもらって、コミュニケーションするアプリで、当時のmixiの中で2番目に売れるゲームにまで成長しました。ちなみに当時の月商は億超えでした。

もうひとつはMobageの『ドリームプロデューサー』という、アイドルを育成するゲームです。これも月商億超えで、利益も結構出ました。その頃のゲームは1チーム6~7名で作っていて、開発コストは今の10分の1以下です。ですから、営業利益率はとても高かったです。今はひとつのゲームに70~80名くらい関わって、開発期間は2年といったことがザラですから、当時は良い時代でしたね。

人生やり直せるなら?

小柳津林太郎

—【楯】ここであえて、悪かった方のお話をお聞きしたいのですが……失敗談というか「人生やり直せるとしたら、やり直したいこと」はありますか?

【小柳津】自分の判断ミスに関しては、今の糧になっているので、それほど「やり直したい」という思いはありません。僕は人生でひとつも後悔していることがありませんし「失敗は全て明日の糧」だと思っています。

ただ、会社がうまくいっていない時期に一緒に働いていたメンバーには、心的ストレスをかけたり、不安にさせたりしてしまった部分があったので、それに関しては申し訳ないという気持ちがあります。累計400~500人、6年半でそれくらいの人数と働いてきて、その中から新しい子会社の社長や役員をしたり、サイバーエージェントグループを出てニューヨークで活躍しているデザイナーが出てきたりと、羽ばたいて行った人の多くが活躍しているのは喜ばしいことです。

ですが、優秀な人たちを採用できていたものの、僕の会社の中で120%がんばれば届くようなチャレンジを本人の意志決定でやらせてあげられる余地は、もう少しあったかと思います。僕の当時の上司は人格者で「自分で決めろ。答えは言わないし、俺にもわからない。これはお前の会社なんだから、お前が決めろ」と言ってくれる人でした。アメリカの事業も、早く撤退したほうが良いという意見もあったようですが、元上司は僕が考えて、考えて、結論を出すまでは口出ししませんでした。本当に素晴らしい上司だったので、この人から学んだやり方や考え方を自分の部下たちに還元してあげられればよかった、という反省はあります。

僕はプレイヤー気質が強いので、フィーチャーフォンのサイトをやっていた時も、自分が「ナンバーワン営業マン」をやっていました。本当は、熱量の高い組織をつくる側にならないといけなかったのに、任せるのではなく自分がプレイヤーになっていた、というのが反省点ですね。ゲーム事業に転向したときも、僕もゲーム企画を考えていましたが、どうやらセンスがあまりなかったようで(笑)。当時の右腕だった人に「林太郎さんはゲームを作らなくていいんじゃないですか? 得意なのは人と話すことだから、採用がんばってくださいよ」と言われて、ハッと気づきました。

それで、エンジニアやクリエイターの採用に全力を注ぐようになりました。ちなみに、その彼は今、株式会社グレンジの社長をやっています。そんな感じで、ゲーム事業をやるようになって初めてプレイヤーという立場を捨てて、マネジメントという役割に徹しました。それで上手くいきはじめたというのはあったと思います。ゲームのことはわからないのでできる人に任せようと決めました。人を探してくるのは得意だったので、北海道へ行く、仙台へ行く、大阪へ行く……という感じでひたすら人材探しをしました。セミナーをやって、面接をして、良ければすぐに東京にお呼びするという流れです。

当時のCTOと出会ったのもそんな流れでして、経営者仲間が「仙台で解散しそうな会社があって、優秀な人材が次を探しているから会わない?」と言うので、2009年12月23日の祝日でしたが「はい、行きます!」といってスグに向かいました。他の企業の人たちは、パワーポイントの資料でガッツリ説明している中、僕は「あ、ヤバい、パワポないや」みたいな感じで、ビジョンだけを熱弁してきました(笑)。そこで会ったのが、いま当社のゲーム事業のCTOを担当している人間です。

人は強み弱みがあって、能力値がデコボコなのです。ですからお互いの強みを活かして、役割分担をしっかりするのが大事ですし、それをうまく機能させるのがマネジメントの役割ですね。誰よりも部下やメンバーを大事にして、チームの成長と結果にコミットする経営者でありたいです。

ひんしゅくは金を払ってでも買え

小柳津林太郎

—【楯】『バチェラー・ジャパン』への参加は、どういった経緯で決まったのですか?

【小柳津】10年来の友だちから「バチェラーという番組への参加の話があるけれど、興味ある?」と言われたのがきっかけです。1回だけ話を聞いてみようと行ってみたら、がっつりオーディションでした。恋愛遍歴や資産、年収、あらゆるプライベートを聞かれました。僕が本音で話したら、向こうの感触が良かったらしく「ぜひ、次の審査にきてください」と、その日の夜にメールがきました。

二回目のオーディションで「ちなみに会社を2カ月間休めますか?」と言われました。普通に仕事をしながら撮影すると思っていたので、さすがに厳しいなと思いましたね。ただ、当時35歳で未婚だったので、「結婚相手が見つかればいいな」と思いました。それに、こうした番組に出るという貴重な機会は、後にも先にもないとも思いました。僕は、演劇をやっていたので人間味をさらけ出すことにあまり抵抗がありません。元経営者なので、人前で話したり、ブログを書いたりもしていますしね。

社長との定例で「バチェラーの最終選考に残っています」と言ったら「すげーじゃん。でどうするの?」と言われました。でも「それがちょっと悩んでいます。会社を2カ月休まなければいけないです」と答えちゃいました(笑)。すごく寛容な経営陣ですが、同僚からすると眉をひそめたくなるような行為ですよね?「なんで、のうのうと2ヶ月も休んで婚活してんだよ」と、思われても仕方がない。でも、「顰蹙(ひんしゅく)は金で買え」という言葉もありますし、一度限りの人生だから、後悔しない方を選ぼうと決めました。その結果、最終的には社長にも副社長にも「会社としては……。個人としては、まぁ、応援……」と言ってもえました。

—【楯】撮影の現場は、どんな感じでしたか?

【小柳津】普段仕事をしていると、複数のことを同時進行で気にしなければなりません。仕事とプライベートのことを気にしながらバランスをとって、社会人生活を送っています。しかし、『バチェラー・ジャパン』の撮影期間中は恋愛だけにしか向き合わなくて良かったのです。ひとつのことにすごく集中できる環境でした。感覚的には、大学時代の演劇をしていて4ヶ月ひとつの作品のことしか考えなかった、という状況に似ていますかね。ひとつのことだけを追求できるというのは、幸せなことですよ。この先もひとつのことだけができるという環境はなかなかないと思いますが、将来的には『バチェラー・ジャパン』2代目バチェラーに変わる代名詞となるような、新しいチャレンジに全力で取り組めたら良いと思っています

バチェラー後の挑戦

小柳津林太郎

—【楯】『バチェラー・ジャパン』参加後の小柳津さんは、どんなチャレンジをされますか?

【小柳津】今(※2018年8月末時点)はサイバーエージェントのアナウンス室所属です。新人アナウンサー2人と、3年目のアナウンサーを管理職として見ていて、他にもいくつかの部署を見ています。これからはファンベースを大きくするための活動も、兼務していくつもりです。例えば「サラリーマンなのに、ドラマに出ている」とかだったら、おもしろいじゃないですか? そういう感じで、サラリーマンとしてハイブリッドな生き方を、先陣をきって切り拓いていければと思っています。

AbemaTVはまだまだ先行投資中です。そこに対して、僕が果たせる役割は、どんどん表現活動をしていき、個人のファンの母体を大きくしていって、そのファンをAbemaTVに還元することです。ゆくゆくはサイバーエージェントの広告塔として新卒採用、中途採用、広報などの役割でも成果を上げていきたいですね。

僕はパーソナルメディアでの発信も行なっていて、InstagramやTwitter、アメブロ、Facebookなどもやっていますので、ぜひ、フォローをお願いします!(笑)今後の活動は国内だけに留めることなくアメリカや中国などへも勇猛果敢に攻めていきたいと思います。



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インスピレーションの源

小柳津林太郎

—【楯】気になっているクリエイターさんはいますか?

【小柳津】川村元気さんです。『君の名は。』『モテ期』や『悪人』『告白』『デトロイトメタルシティ』『宇宙兄弟』を手がけた方で、若手で一番ヒットを作り出しているプロデューサーですね。ヒット作をちゃんと仕込みで作り出せているので、そういう方といつか仕事がご一緒できたら、本望です。行き着くには、まだまだかかると思いますけど(笑)。

あとは、グループ会社の人間で恐縮ですが、株式会社Cygamesの渡邊耕一社長が、本当にすごいクリエイターでして、彼は大ヒットを連発しています。サイゲームスが始まった当初、僕と渡邊さんは同じマンションのご近所さんでしたが、今は圧倒的にすごい場所にいってしまった(笑)。でも、そういう方が身近にいたのは素晴らしいことだったと思います。

—【楯】ロールモデルや、尊敬している人を挙げるとすると?

【小柳津】サイバーエージェントの経営陣をすごく尊敬しています。

あと、尊敬とは違うかもしれませんが……憧れの対象はジャスティン・ティンバーレイクですかね(笑)。彼はミュージシャン、俳優かつ経営者ですからね。アシュトン・カッチャーとか、ジェシカ・アルバとかも、出る側の仕事と自分のビジネスを両輪で回して、成功している人なので憧れの対象です。

夢のあるサラリーマン像をつくる

小柳津林太郎

—【楯】ご自身のBlogなどで「ハイブリッドサラリーマン」という表現を使われていますが、この意味というのは?

【小柳津】サラリーマンだけど、タレントをやっていたり、MCやDJ、ないし投資家をしていたりという感じで、マルチでいろいろなことをやっている人のことですね。僕は「サラリーマン」という言葉にもう少し夢を持たす余地があるのではないかと考えています。だから、そんな新しい“像”を自分自身が切り拓いていきたいな、と思っているんです。

僕の会社でも、優秀な人が辞めて独立していくパターンを見かけますが、「会社を辞めなくてもいろいろなことができるよ」って思うんですよね。やらなければならないことと、やりたいことを合致させる道は、まだまだあるのではないかと感じています。みんなが同じことができるワケではないと思いますが、何人か後追いをしてくれる人が出てきたらいいなと思います。

—【楯】これまで習慣としてやってきたことで、良かったことはありますか?

【小柳津】ブログをずっと書いてきていて「考えを言葉に落とす」という作業をずっとやってきました。自分の考えを言葉に落として人に発信すると、なにかしらのフィードバックがあって、どんどん自分が磨かれていきます。こういった自分の思いをポジティブに発信していくということを大学時代からずっとやっていて、良かったと思っています。あ、あとお酒はほぼ毎晩飲んでいますね(笑)

—【楯】私たちは「新しい時代をつくる鍵になる働きをしたいビジネスパーソンたちをターゲットにしたメディアです。なので、これからそういう仕事ができるようになりたい、組織やチームを成功に導くキーになる人になりたいという人へのメッセージ、助言をいただければと思います。

【小柳津】僕はこれまで、会社としてやらなければならないことを最優先にしてずっと生きてきました。社会人13年目になって大切だと気づいたのは「会社としてやらなければならないこと」と「自分がやりたいこと」、「自分ができること」この3つの中に共通する部分を見つけて、自分のミッションにすることですね。それが一番気合が入るし、高いパフォーマンスが出せるようになります。

部下を持たれている方へ向けては……やはり、大事なのは組織で成果を出すことですよね? なので、そのために部下のやる気を最大限引き出せるよう「やらなきゃいけないこと」「やりたいこと」「できること」を「共通項」として提示してあげるという考え方が大切です。人の潜在能力は測り知れないので、まずいろいろやらせてあげて、得意不得意を見極め、そこから本丸のミッションを見つけてあげられる上司でいられると、素晴らしいと思います。

—【楯】インターネットを通じで個人が情報発信をしたり、表現をすることの価値が高まる中で、そういった活動を会社員としての仕事と両立させていくという小柳津の生き方は、まさに新しい時代のロールモデルとして必要とされているのだろうと感じます。今日はたくさんの興味深いお話をありがとうございました。

【小柳津】こちらこそ、ありがとうございました。



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小柳津林太郎

【撮影協力(場所提供)】株式会社PLAN-B(プランビー)


Company
企業 株式会社サイバーエージェント
所在 東京都渋谷区道玄坂一丁目12番1号
業種 メディア、インターネット広告、ゲーム、など
URL https://www.cyberagent.co.jp/



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