“教育の虎”から“令和の虎”へ。1本の電話で人生が大きく変わった岩井良明の半生と今後の挑戦
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氏名 | 岩井良明 |
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肩書 | 株式会社モノリスジャパン 代表取締役社長 |
略歴 | 教育事業の株式会社モノリスの代表取締役会長並びに株式会社モノリスジャパンの代表取締役社長、NPO スポーツフォーラム愛知 筆頭理事。『マネーの虎』の元虎であり、『令和の虎CHANNEL』主宰者。 |
2001年~2004年に放送された伝説のTV番組『¥マネーの虎』(日本テレビ系)。番組に出演していたのは、志願者である一般人の起業家と、修羅場をくぐり抜けた猛者揃いの“虎”と呼ばれる投資家たち。志願者が事業計画をプレゼンテーションし、“虎”たちが出資の可否をその場で決定するという画期的な内容で、大きな話題を呼んだ。“虎”が志願者に罵倒を浴びせることも珍しくなく、そのシビアさは今でも語り草となっている。放送終了から約17年経っても強烈な印象を残す“虎”のひとりが、約6,000万円ものお金を出資した岩井良明氏だ。自身が設立した会社は設立30周年を迎え、2018年からはYouTubeで「令和の虎CHANNEL」も運営。
今回は、岩井氏の生い立ちやYouTubeチャンネルが誕生したきっかけ、今後の事業について迫った。
※ 本インタビューは緊急事態宣言が発出される以前に、感染症対策を行なった上で実施しています。また、取材後2週間が経過した時点で、関係者に新型コロナウィルスに関する症状はありません。『¥マネーの虎』から「令和の虎」へ。伝説の番組が現代に復活
—【聞き手:松嶋、以下:松嶋】岩井さんといえば『¥マネーの虎』で“教育の虎”として、志願者だけでなく虎側の社長たちとも熱く議論を交わされていた姿が印象的ですが、元々は志願者として応募されていたというのは本当ですか?
—【話し手:岩井良明氏、以下:岩井】はい。当時は自身が起業した会社の経営が順調ではない面があり、最初は志願者として応募しました。番組を観た後に志願者を受け付けていた番号に電話をかけて番組担当者と話したのですが、年齢制限があったので断られてしまったんです。でも、ある日会社に別の方から電話がかかってきて、「虎側で出て欲しい」と言われまして。
最初はもちろん断りました。当時は借金もしていて本当にお金がなく、他人に出資する余裕なんかなかったので。でも何度も電話がかかってくる中で、ついには会社があった愛知県江南市にプロデューサーがやって来ることになったんです。流石に会社に来た相手を無下にはできなかったので、とりあえず話を聞くことになり、熱心に説得されたので一度だけ出演することにしたんです。結果的には、初出演で335万を出資しました。そこから、出演を続けることになったという流れです。
—【松嶋】そんな裏話があったのですね。現在はYouTubeで「令和の虎CHANNEL」を運営されていますが、こちらはどういったきっかけで始められたのでしょうか。
—【岩井】自分でもまさかYouTubeをやるとは思っていなかったのですが、始めたきっかけは僕の会社で手がけていた新卒採用のビジネスが関係しています。大学生向けのパンフレットや映像作品、Webサイトを作っていて、その中でも僕らが得意としているのは、説明会や選考会などのコンテンツをオリジナルで作り、企業に提供するというものだったんです。
そんな中で、大学生を集めるというところだけはやっていなかった。少し前まではリクナビやマイナビといった大手のサイトから大学生を流入していたのですが、近年はそういった流れが少なくなり、台頭してきたのがイベント会社です。企業と大学生をマッチングさせるイベントをやっている会社があって、クライアントとともに僕らも参加していました。
参加するうちに「大学生と企業のマッチングって面白いなぁ」と思うようになり、自分たちでも事業として挑戦することにしたんです。そういったイベントはTwitterなどで大学生を集めることが多いのですが、僕は二番煎じは好きではない。Twitter以外の方法を探しているときに、YouTubeを見つけました。当時はちょうどYouTube が盛り上がっていたので、そこでコンテンツをつくれば集客できるのではないかと思いまして。
—【松嶋】新しいビジネスのためにYouTubeを始められたのですね。
—【岩井】はい。それでYouTubeチャンネルをつくることが決まって、次の段階としてバズるコンテンツが何なのかを考えた時に、『¥マネーの虎』に出演していた社長や、今をときめくような若手の社長たちに登場していただいて、僕と対談することで大学生が見てくれるのではないかと思って始まったのが「就活の虎CHANNEL」です。
—【松嶋】「令和の虎CHANNEL」の前身となるものですね。
—【岩井】そうです。そこで色々と準備をして、2018年に「就活の虎CHANNEL」がスタートするのですが、始めてみたら予想が全く外れまして……。
『¥マネーの虎』で虎として活躍されていた南原さんや川原さんに出演いただいたのですが、彼らが表舞台に出てくるのは久しぶりだったので、『¥マネーの虎』が大好きだったおじさんたちが集まってきたんですよ。
当初のターゲットであった大学生には全く響かなくて、最初にストックしていたネタが尽きた頃に「諦めなきゃいけないな」と思いました。でも、当時のチャンネル登録者数は3万人ぐらいいて。これだけの人が楽しんでくれているのに、ここで終わらせちゃうのもったいないなと考えていた時に、ふと「現代に『¥マネーの虎』みたいな事をもう1回やってみたら面白いかもしれないな」と思いついて、半年ぐらい経ってから方向をガラッと変えることにしました。
ちょうど元号が切り替わるタイミングでもあったので、当時の官房長官だった菅さんが「令和」と発表したあと、すぐデザイナーに依頼してロゴを制作してもらいました。多分日本で1番最初にYouTubeチャンネルに「令和」という名前を使ったのは、僕らなのではないでしょうか。
そこから「令和の虎CHANNEL」としてスタートしました。でも、最初は出資してくれる社長が集まるとも思っていなかった。そもそも、志願者がくるとは思っていなかったんですよ。トピックス的に数回やって、華々しく散ろうかなと思っていたら、不思議なことに虎である社長たちもたくさん集まってくださって、志願者も途切れることなく出演してくださっている。そんなこんなで、気がついたらスタートから2年半経っていたという感じです。
「出資を決める鍵は数字より“情”」。令和の虎が結成した応援団が日本を元気にする
—【松嶋】志願者の方とはYouTubeに出演される1ヶ月ほど前からやり取りをされているとお伺いしたのですが、『¥マネーの虎』の時と比べて志願する方の特徴や違いなどありますか?
—【岩井】決定的に違うところでいうと、「令和の虎CHANNEL」に出演している志願者の内、3人に2人ぐらいは既に会社を経営している人だということですね。規模はそれぞれ異なりますが、自分でビジネスをやっている中で新しいビジネスをやりたいという人が多い。その中で、あくまで僕個人の感覚ですが、ビジネス的な考え方がしっかりしている志願者が半数くらいるという印象です。『¥マネーの虎』の志願者の場合は、会社員でなければ自分でビジネスをやっているわけでもなく、「そもそも何をしている人なの?」という感じの方が多かったので、“質”は違うでしょうね。
—【松嶋】なるほど。事前のやり取りの中で、「これは難しいだろうな」という方もいらっしゃったりするのでしょうか。
—【岩井】そうですね。そういった場合、可能性が低いというのを伝えた上で、「ALLにならなくても『令和の虎CHANNEL』に出演することが、自分のためになると思うのであれば、出た方がいいんじゃない」と伝えるようにしています。そうすると「可能性が低くても出演します!」という志願者がいて、案の定ボコボコにされて結果としてはプレゼン失敗となるのですが、お金をもらえなくても頑張っている人っていっぱいいるんです。勇気をもって出演してくれた人たちのことは、結果に関係なくこれから先も応援したいなと思っていますね。
—【松嶋】出演すること自体に意義がありますよね。虎として出演されている社長たちについても『¥マネーの虎』と比べると少し違うように感じるのですが、いかがですか?
—【岩井】今の若い社長たちは本当に優秀ですよね。自分が若返ったとしても、今の虎たちと同じことはできないと思います。あと、怒らない。本当にみんな優しくて、自分はつくづく“昭和の人間”だなと感じています。
—【松嶋】時代が変わったというのもあるのでしょうか。
—【岩井】そうですね。個人的に一番変わったと感じているところでいうと、『¥マネーの虎』が放送されていた2001年~2004年当時って、“何でもアリ”だったんですよ。社長たちが暴言を吐こうが何しようが、2chで叩かれるくらいだった。でも、今はYouTubeのコメント欄もあるし、TwitterなどのSNSがいっぱいあるじゃないですか。そんな中で『¥マネーの虎』と同じようなことをやれる社長はいないですよ。逆プロモーションになっちゃいますしね。
「今の社長はおとなしい。昔の虎みたいに吠えろ」というコメントもあるのですが、今の時代でそれをやるのがどれほど難しいか考えてみていただきたいですね。僕個人は相変わらず吠えているので叩かれますが、今の時代にそんなことをする人はいないでしょう。
—【松嶋】自分の意図とは違う風に切り取られて炎上するということもありますからね。虎である社長たちはこれまで何人ほど出演されたのですか?
—【岩井】総数でいうと60人ほどですね。その人たちって、応援団のような存在なんだと思っているんです。若い社長たちは最初のインタビューで「僕は情で動かないから、ちゃんとシビアに数値を見て出資するか決めますよ」と言うのですが、結果的にはみんな情で出すんですよ。それが僕は嬉しいんです。
数字を見るだけじゃなくて、“情で決める”というのが正しい形だと僕は思っていて。なぜかっていうと、『¥マネーの虎』に出演していた当時、ネットでは「岩井は絶対失敗するようなビジネスにお金を出している」と書かれていました。僕はその時に「見てろよ。ビジネスは数字ではなく“人”が大事なんだ」と思っていた。実際にどうなったかっていうと、僕が出資した子たちは、みんな現在も頑張ってビジネスをしているんですよ。
そういうことが今の社長たちにも理解をされてきていて、「あそこの席に座ると感覚が変わりますね。当時、岩井社長が言っていたことが、今になってわかるような気がします」と言ってくださる方もいます。
もう一つ嬉しいと感じているのは、今の若手の社長たちの中には、会社をバイアウトするとか、現場から退いて投資家に回ろうと考えていた方もいらっしゃるのですが、「令和の虎CHANNEL」に出演することで、ビジネス意欲がもう一回再燃して「お金儲けではなく、もっと仕事がしたい」と、みんなが思い始めている。
これって、とても楽しいことですよね。僕が「そんな若くして引退とかつまんない人生は辞めましょうよ」と言ったら、「こんな人生もアリじゃないですか」と返答していた人たちがいっぱいいたのに、今はみんなやる気になっている。関わっている人たちが元気になっていくのを見ていると、やって良かったなと思いますね。
—【松嶋】岩井さん自身が過去に虎として応援団をされていて、今は応援団をつくる側に回られたのですね。応援されている方はもちろん、応援をしている方も不思議と元気になれる。それって素敵なサイクルですよね。
—【岩井】そうですね。「令和の虎CHANNEL」には、『¥マネーの虎』を見ていて「あの時は勇気がなかったけど、今回だけは挑戦したい」という方も志願してくださっています。それを聞くととても嬉しいし、こういうことがもっと広がっていけば、ほんの少しでも社会全体を元気にできるのではないかと思いますね。
「筋を通す」をモットーに歩んできた、波乱のビジネス人生
—【松嶋】「令和の虎CHANNEL」を運営される一方で、現役の社長としても活躍されていますが、会社を設立されて何年目になるのでしょう?
—【岩井】2021年で30年目に突入しました。途中で分社したので、今はモノリス教育ネットワークとして7社あります。その中でも僕が代表権を持っているのは、一番最初に立ち上げた株式会社モノリスと、教育専門の広告代理店である株式会社 MONOLITH Japan (以下:モノリスジャパン)の2社だけです。現在はモノリスジャパンに注力していて、他の会社は後進に任せていますね。
—【松嶋】そもそもなぜ分社をされたのでしょう?
—【岩井】社員が多くなってきた時、50人~60人ぐらいまではみんな僕が把握できていたのですが、80人になった時に顔と名前が一致しなくなっちゃったんですよ。全体で会議をしているときに、後ろのほうで退屈そうに会議を聞いてる人もいて、「あれ、なんか今までの会社と違う」と感じたんですね。その時に、20人~30人規模の組織で動いた方が、それぞれの力を発揮できるのではないかと思ったんです。
あと、塾以外にスポーツ事業や飲食店経営など、一つの会社で本当に色んな事をやっていたので、それらを一つにまとめることも大変だった。そういった理由を踏まえて、複数あった事業を分けて、それぞれに特化した会社を作っていったという形です。
—【松嶋】なるほど。分社の前には一度上場の準備もされていたんですよね?
—【岩井】はい。時期でいうと『¥マネーの虎』に出演する前ですね。モノリスは順調に成長を続けていたし、せっかく会社を立ち上げたんだから上場したいという野心もあった。監査法人に経営状態を見てもらったり、上場のプロフェッショナルを15人ほどヘッドハンティングしたりと、上場に向けて準備を進めていました。
でも、準備を進めている頃から業績が悪くなっていったんです。そうしたら担当者に「うまくいっている事業を伸ばして、利益の出ていない教育とスポーツの事業をやめたほうがいい」と言われてしまったんですね。でも、その二つは僕にとってとても大切な事業だったので、絶対やめたくなかった。そもそも株主のために会社を動かすというのが、どうも性に合わなくて……。まぁ、自分に上場するだけの力がなかったというのが事実だとは思うのですが。
上場を諦めた後に、モノリス史上最大の経営ピンチもあり、会社の売却話が進んでいたこともありました。しかし、買っていただく側の会社よりも僕の会社の方が給与が高かったことから「会社を買ったら社員の給与は下げる」と言われたので、その場で売却については取りやめにしてもらうことにしたんです。
そうすると、当然お金は入ってこない。でも、月末までに1億円を用意しないと会社は潰れるという状態でした。そこで知人に相談したところ、なんとか縁を繋いでいただいて、1億円を貸してくださる方に出会ったんです。そこからなんとか建て直して、1年後には無事にお金を返済できました。『¥マネーの虎』に主演することになったのは、返済期間の真っ只中にいる時でしたね。
—【松嶋】まさに波乱のビジネス人生を歩んでこられたのですね。長年ビジネスをされてきた中で、岩井さんが一番大切にされていることについてもお伺いしたいのですが、いかがですか?
—【岩井】言葉にすれば、とにかく「筋を通すこと」です。筋の通らないことが大嫌いなので。それはクライアントさんに対しても同じことで、言っていることの筋が通らない方とはお付き合いしたくないんですよね。取引を続ければ会社に利益があるかもしれないけれど、自身の信念を曲げて仕事をするって楽しくないので。
—【松嶋】お話をお伺いしていると、ご自身が借金をされている中で『¥マネーの虎』に出演して志願者に出資したり、社員の給料を守るために売却の話を断ったりと、「人助け」というのも、岩井さんの中で大きなキーワードなのだろうかと感じました。
—【岩井】人を助けるというのはおこがましいというか、そんな風には言われたくないし、思いたくもないんですよ。本当に助けてるかどうかの自信もないですから。ただ、例えば目の前に人が現れて「助けて」言われた時に、関心がないふりをして逃げることって簡単じゃないですか。
でも、僕は「ここで逃げて、その後に自分が豊かな生活ができるようになったら、ふとその時に『俺はあの子のこと捨てたよね』ってよぎるだろうな」って思うんですよ。それって人間としてすごい後悔になってしまう。それだったら、関わっておこうって思うんです。
人を助けているつもりはないですが、人と関わり続けるというのは、僕が生きる中での一つの行動指針になっているのかもしれません。
文学少年から応援団へ。虎の人生を決めた大学時代
—【松嶋】過去のお話もお伺いできればと思うのですが、小さい頃はどんなお子さんだったんですか?
—【岩井】小さな頃から読書が大好きで、小学生の頃から明治文学を読んでいました。難しい言葉がいっぱい出てくるので、枕元に国語辞典を置いて、わからないことがあれば全部調べていましたね。最初は森鴎外の本を読み始めて、小学校の高学年からは武者小路実篤に傾倒するようになり、有島武郎なども好きでした。
子どもながら「人間は何のために生きてるんだ」というのを突き詰めていったら「後世に名を残すためだ」という結論に達したので、将来は小説家になろうと考えていて、実際に小説を書いて投稿したこともありました。今から思い出すと顔から火が出ますけどね(笑)。
高校生になっても小説を書き続けていたんですが、その頃から谷川雁さんが立ち上げたラボという組織にも所属していて、中部地区のリーダーをしていたんです。ラボがどういうものなのかというと、アメリカやフランス、韓国といった国々と国際交流をしていて、夏休みになるとホームステイにいったり、日常的な活動としては、英語で演劇などをしたりするというものですね。
もともと小学校では生徒会長をしていたこともあり、外に出て人と関わるのが好きな性格なので、そういった活動が楽しかった。でも、小説を書くって閉鎖的な世界なんですよね。そんな両極端な活動を続けていたら、高校生3年生になった時に「小説を書くという孤独な行為に自分は耐えられるのか?」と疑問を感じるようになったんです。結果として小説家の夢は諦めることにしました。
そこで、小説家以外で後世に名を残すためには何がいいのかと考えた時に、思いついたのは演者でした。通っていた東海高校は演劇が盛んだったので、演劇の脚本を書いて主演をやってみることにしたんです。それで全校のクラス別演劇発表会に出たら、最優秀に選ばれて。「僕、才能あるわ!」って思って、本格的に役者を目指すことにして、大学に入ったら演劇部に入って頑張ろうって決意していたんですよ。
—【松嶋】けれど実際は、大学では応援団に入られるんですよね?
—【岩井】はい。そもそもの背景からお話しすると、僕らが学生の頃って学生運動が盛んだったんですよ。同志社大学に進学したのですが、入学式なんてなかったですからね。大学生と機動隊が鉄パイプで殴り合って、火が出ているところもあるみたいな。当時は「えらいところに入ったな」と思っていました(苦笑)。
当初の目的であった演劇サークルも学生運動の思想が入っていたので入会せず、東映太秦映画村でエキストラのバイトをしていました。そのうち大学にもあまり通わなくなり、ダラダラとした大学生活を送っていましたね。でも、久しぶりに大学へ行った日に応援団の先輩にたまたま捕まってしまって、強制的に応援団に入らされて、そこから人生が大きく変わっていったんです。
—【松嶋】具体的にはどのように変わったのでしょう?
—【岩井】それまでは「自分が生きた証を残したい」という思いしか頭になかったのですが、今日生きているのが精一杯、いつ死んでもおかしくないぐらいのところまで追い込まれる日々が始まったんです。
まずは人格否定から入り、矛盾や不条理の連続。講義に出る暇なんてないくらい、スケジュール的にも拘束されて、精神的にも肉体的にも追い込まれるわけです。今話すと「冗談でしょ?」ということが、まかり通る時代だった。本当にどん底まで突き落とされるので、毎日辞めたくて仕方なかったのですが、「せっかく大学に入ってきたのに、応援団を辞めたら大学を除名されるぞ」って先輩に言われるわけです。そんなことあるわけないのですが、当時は名古屋から出てきたばかりで、それが嘘かどうかの判断ができなかった。
でも、なんとか持ち堪えて活動を続けていると、次第に頑張っている人を応援するという行為を楽しく感じるようになっていったんです。応援していた運動部のメンバーが「応援団のおかげで勝てました」と言ってくれることもあり、とても嬉しかったんですよね。そうしたことが積み重なっていった時に、それまで何か一つのことをやり遂げたことがなかったけれど「応援団だけはどんなに苦しくてもやり切ろう」と思うようになったんです。
あと、自分たちが2年生になった時に後輩が入ってきたので「先輩として見本を見せなきゃ」という気持ちが強くなったと同時に、先輩たちのやり方に対して疑問に思っていた部分も多かったので「応援団長になって、この組織を変えてやる!」と決心して、そこから応援団の活動を必死に続けました。それで、3年生の秋に念願叶って応援団長に任命されたんです。
でも、僕が団長になって約半年後ぐらいに暴力事件が起こって、応援団は解散してしまうことに……。その暴力事件は被害者の自作自演で、実際に暴力はなかったのですが、新聞に載るほどの騒ぎになってしまったんですよ。
—【松嶋】かなり大きな事件になってしまったのですね。
—【岩井】はい。でも、振り返ってみると、今の僕を形成している一番の要因は、その事件だったように思います。というのも、その事件の後、社会人として働いていた先輩たちに事情を説明する必要があったし、再建のための支援をお願いしにいっていたんですね。その時に「どうすれば人は僕が考えていることを理解してくれるんだろう」「この人はどういう気持ちで僕にこういう言い方するんだろう」ということを考えるようになった。
2年ぐらいして部分的に応援団が再建できた時に、僕は大学を辞めてリクルートにアルバイトとして入社することになるのですが、そこでは営業マンとしてとてもいい成績を残すことができました。それは、応援団再建のために先輩たちとたくさんコミュニケーションをとっていたおかげで、相手の気持ちを理解するというスキルがしっかり身についていたからだと思っています。
辞めろと言われてもやめたくなかった。採算度外視の“心の教育”
—【松嶋】大学を中退された後はリクルートにアルバイトとして入社されて、そこから現在に至るまではどのようなキャリアを歩んでこられたのでしょう?
—【岩井】リクルートではアルバイトとして入った後に功績が認められて正社員となり、一番ピークの時は全営業マンのなかでトップの成績を記録した時もありました。営業に関するスキルを身につけた後、リクルートをやめて次に何をしようかと考えた時、当時は27歳で貯金もなく車の免許を持っていなかったので「とりあえず免許でもとるか」と思って、教習所に通うお金を作るために夏期講習の塾講師のアルバイトをすることにしたんです。なんで塾講師だったのかというと、単純に報酬が高かったから。
それで、塾講師のアルバイトとして中学3年生の子たちを担当することになったのですが、成績が悪い子たちばかりで、学校でも先生から注目されないような子たちだったんです。でも、ど素人の僕が1ヶ月教えただけで、「勉強が好きになった」とか「先生の授業面白い」と言ってくれるようになって。そんなこともあって、最初は夏期講習の期間限定の仕事だったのですが、塾長から何度もスカウトされたので、「高校受験が終わるまでの半年間は続けるか」くらいの気持ちで、塾講師として働き始めました。
結局その塾で数年働くことになるのですが、塾長の不義理が判明したので退職して、当時一緒に塾講師をしていた知人2人と平成元年に大志塾を始めたんです。
—【松嶋】モノリスの基となる塾ですね。
—【岩井】はい。最初は崇高な理念があったわけではなく、お金目当てで始めたわけでもなかったので、お金を稼ぐ手段として塾講師があり、子どもたちへの対価として何かを伝えることができるのであれば、いい仕事だなくらいに思っていました。
ところが、いざ始めてみたら予想していた以上に生徒が集まってくれて。最初は280人、1年後には700人。2年半後には1,000人規模になりました。3年目には3人では無理だろうということになって人を雇い始めて、株式会社モノリスとして法人化しました。
その後もとても順調に経営できていたのですが、塾の評判が上がるにつれ、優秀な生徒が増えてきた。次第に「子どもたちにエリートコースを歩ませるために塾をやっているのか?」という疑問が湧き上がってきたんです。僕は子どもたちに人間として豊かな人生を歩んでほしいと思っていたので、人としてどうあるべきかを考える教育に力を入れるようになり、進学塾の看板を下ろしました。
—【松嶋】具体的にはどういった教育をされていたのですか?
—【岩井】簡単に言えば、心の教育ですね。僕らは感性教育と呼んでいたのですが、学校では体験できないような教育をしていました。例えば当時は学校でやっていなかった理科実験や体験学習ですね。そういったものを導入して、小学生のうちに心を豊かにさせようという「シーガルスクール」を作りました。
心・技・体が揃ってこそ健全なのではないかと考え、スポーツ事業としてサッカーや野球、柔道、ゴルフなどのクラブチームも作っていました。
上場を諦めた際の話で「教育とスポーツ事業をやめなさい」と言われたと話したと思うのですが、それはこの二つの事業のことなんです。感性教育とスポーツ事業は儲け度外しでやっていて、僕らの良心とも言える事業なんですよ。
ほんのわずかな勇気が人生を変える。まだまだ続く虎の挑戦
—【松嶋】今後の挑戦として、何か考えられていることがあれば、お聞かせいただきたいのですが、いかがですか。
—【岩井】人を育てて、残したいですね。「令和の虎CHANNEL」を通して、たくさんの社長たちとの繋がりができたし、何より今の毎日がとても楽しいので、何か新しいことにも挑戦してみたいと思っています。まだ発想が芽生えたばかりで具体的なことは決まっていないのですが、今後は「V字回復の虎」のようなことをやってみようかなと。経営危機に直面している会社の社長が出てきて、虎たちとやり取りをする。そこで5人の虎のうち、3人以上が「もっとこういうことをやったらなんとかなるだろうから、手を貸すよ」と言ってくれたら、プロジェクトを組んで、その会社を回復していくとか。
同じ仕事で同じやり方をしていても、AさんがやるのとBさんがやるのでは、結果が全く違うわけですよね。なので、社長が良かれと思ってやってきたことが、虎たちからしてみると間違っているところもあるはず。そこに虎たちのアイディアとか、違うエッセンスを入れてみたら、同じ事業を続けるとしても、回復することがあると思うんです。
虎たちとコンサルの会社を立ち上げたり、NPOのようなものを創るのも一つの手かもしれませんね。今はアイディアとして持っているだけですが、そういったことができたら面白そうだなと。
—【松嶋】まだまだ岩井さんのチャレンジが見られるのですね。最後に読者へメッセージをいただけますか。
—【岩井】僕は『¥マネーの虎』に応募した電話がきっかけで、今こうして表舞台でお話しさせていただいています。ほんのわずかな勇気、もしくは一瞬の思い切りが、その後の人生を大きく変えるということはたくさんある。
リスクを考えて行動できないという場合もあるかもしれませんが、未来の明るさをイメージして挑戦してみて欲しいと思います。「令和の虎CHANNEL」の志願者の中には、出演して後悔しているという人もいるかもしれない。でも、限りなくゼロに近いと僕は思っています。挑戦することで得るものはたくさんあるので、井の中の蛙で終わらないように、いろんな人を知ってほしいですね。
—【松嶋】ネガティブなことばかりを考えて挑戦せず、現状維持をするのも一つの手ではありますが、それでは何も得られませんよね。目指す場所があるならば、一歩踏み出さなければいけない時もある。人としての筋を通しながら、挑戦し続けることが大切なのだと感じました。岩井さん、本日は貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました!
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