“上場請負人” 池本克之が語る
事業を成功させる極意

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氏名 池本克之
肩書 株式会社パジャ・ポス 代表取締役
出生 1965年
神戸市生まれ、日本大学卒。ノンバンク、海外ホテル事業、生命保険代理店営業を経験。株式会社ドクターシーラボ移籍後、代表取締役として2003年3月ジャスダック店頭公開に貢献。2004年3月株式会社ネットプライス執行役員に就任し、2004年7月にはマザーズ店頭公開を達成。経営者として2度の株式公開を経験する。現在は組織学習経営コンサルタントとして多くの企業の業績向上、企業文化の発展を支援している。(池本克之公式サイトより抜粋)

ドクターシーラボとネットプライス、2社の上場の原動力となり、現在はパジャ・ポスで経営者向けコンサルティングを行なう池本克之さん。このインタビューでは、バブル期、そしてインターネット黎明期を駆け抜けた“上場請負人”の生い立ちと経歴に迫ります。

—【聞き手:ザ・キーパーソン編集部、以下 編集部】 今日はよろしくお願いします。『ザ・キーパーソン』は経営や芸術などの分野で成功を収めた方々にお話をおうかがいするインタビュー・メディアです。今回は、池本さんの少年時代や下積み時代、そして2度の上場を経験された後、現在に至るまでのストーリーをじっくりとお話しいただければと思います。

—【話し手:池本克之、以下 池本(敬称略)】

はい、よろしくお願いします。

タイガース大好き、ジャイアンツ大嫌い
関西育ちの野球少年だった

—【編集部】まずは、ご自身の生い立ちについて、お聞かせください。少年時代、学生時代の思い出や転機になったエピソードなどをお話しいただければと思います。

—【池本】小学校2年生から野球を始めて、高校3年生までずっと野球をしている生活でした。夕方になって暗くなるまで原っぱにいるタイプでしたよ(笑)。一方で、あまりしゃべらない、もの静かな子供ではあったようで、それを家族から心配されたこともあるくらいです。

関西で野球少年となると、やはり「甲子園を目指す、タイガースファンの少年」だったのですか?

はいはい、それはもう(笑)。甲子園を意識しはじめたのは中学生くらいでね。当時、子どもがスポーツをするといったら、野球しかなかった時代です。父親も野球好きで、息子もタイガースファンというよくあるパターンですね。いまでもタイガースファンですし、ジャイアンツは大嫌いです(爆笑)。

その後、父親の転勤で千葉県へ引越しましたが、野球は続けていました。当時、おなじ野球部の子どもはみんな自転車で練習や試合へ行っていましたが、僕は家が貧乏だったので自転車を買ってもらえず、他の子たちの後ろを走って追いかけていたことを覚えています。でも、それが嫌だとは思っていませんでした。「なんで僕だけ、買ってもらえないのか」といった思いは全くありませんでした。そんな感じの生活の中で、少年時代は「自分は将来、野球選手になる」とずっと思っていました(笑)。

そういった流れで、土浦日大(土浦日本大学高等学校)という、甲子園の常連校に入りました。野球部の新入部員が100人いるような世界で勝ち抜いてレギュラーを取って甲子園へ出てプロに指名されて、というのを入学時に思い描くわけです。でも、現実は厳しい。みんな身体が大きいし、たくさん練習してきた能力の高い選手ばかりで競争が激しかったです。

茨城県の学校だったので、方言でしゃべる先輩が何を言っているのかわからないのも困った(笑)先輩から「池本! ○%&X#っぺよ」って言われても、聞き取れない。本当にわからなかったので「え?は?」って聞き返します。するとね、その瞬間にボコンと殴られましたよ(苦笑)。僕は神戸生まれだったので、茨城の方言はわからないでしょ。もう35年くらい前ですけど、当時の茨城弁って本当に難解でした。通訳が要る(爆笑)。

当時、田舎の私立は偏差値も低いし、ガラの悪いやつがいっぱいいるわけです。みんなヘンテコな制服で、僕も先輩からもらったブカブカのズボンを着ていました。するとね、めったに朝礼にこない監督が、ヘンなズボンをはいている時に限ってやってきたりして。「監督が来るからヤベーぞ!」と慌てて部屋にもどって着替えるのですが、監督は全てお見通しなので、ブン殴られるという……。今の時代では考えられない荒っぽい世界でした。なので、寮を脱出したりだとかもして、何度も辞めそうになりましたけれど、なんとか卒業できました。

上手かった先輩が球拾い
野球での限界を知る

—【編集部】大学受験への取り組みはいかがでしたか?

野球部の学生向けに「セレクション」というのがありまして、これは野球で進学したい人が受ける試験ですね。私が通っていた高校は日大の付属校だったので、セレクションもまずは日大へ行こうと思って試験を受けに行きました。

そうすると、自分たちの1つ上のキャプテンだった人が外野で球拾いをしていたのです。挨拶しようとしたら「来るな!」と、とても怒られました。彼からすると球拾いをしていることが恥だったようですね。彼はとても野球が上手かったのに、大学では球拾いになってしまっていたのです。しかも、今日は高校生がセレクションに来るからと、1軍は練習試合に遠征をしていて、2軍しか残っていない中での球拾いです。

「あの先輩が2軍の球拾い!? これは相当レベルが高くないか?」と驚きました。ノックをやるから守備位置についてと言われ、高校時代のポジションのショートについたら、大学生が守っているのが2、3歩後ろでした。これは野球経験者からすると驚きの差でした。大学生がこれなら、プロはさらに後ろになる。自分にはできるわけないと思いましたね。前に球を取りにいくスピードや、取ってから一塁まで投げる距離、すべてが違います。この範囲を守るのかと思うと、レベルが違いすぎると感じました。それで、ノックが始まる前に「自分はここで勝ち残ってプロ野球選手になるのは無理だ」と悟りました。この時に「まじめに受験勉強をするしかないな」と思って、そこから勉強をはじめました(笑)。

成績はスポーツクラスの上の方でしたが、進学クラスも含めた学校全体だと真ん中より下だったんですが、最終的にはトップ10までいきました。9月から統一試験までの数ヶ月の間で、野球でつちかった根性と集中力を発揮して猛烈に勉強しました(笑)。

そうして、成績を上げて推薦で入学したのが日大の農獣医学部(現 生物資源科学部)でした。当時日大の中では法学部や経済学部が人気で、農獣医学部というのは“最下層”でした(笑)。僕は文理学部の心理学科に行きたかったのですが、先生から「キミは夜間じゃないと行けないよ」と言われました。じゃあ昼間がいいということで農学部にいきました。先生には「キミは体力があるから農学で大丈夫だ」と言われて、僕は素直に「そうか、体力勝負なら大丈夫だ」と納得して進学しました(笑)。

—【編集部】大学時代は、どんな学生でしたか?

大学ではアルバイトに明け暮れていて、当時の金額で1ヶ月に20万円くらい稼いでいました。働いていたのはお店のデコレーションや遊園地の飾り付けをする会社でした。この仕事は特定の時期にドッと大量の人手が必要になります。例えば、クリスマス後はデパートのエスカレーターの飾り付けと取り換えをやるので、12月25日の夜から26日のオープンまでに大量のアルバイトが雇われます。そこで、会社から「池本、この日働けるヤツを100人連れて来い」という指令がくるわけです。僕はそれに応えて、大学中に呼びかけてアルバイトをかき集めていました。これはけっこう条件が良くて、1人集めると僕は1,000円もらえました。100人集めると一晩で10万円です。さすがに100人も集める機会は年に1回ほどですが、5人10人、20人といったものは頻繁にあったので、それで稼いでいました。

時代はバブル
借金2700億円で社会人スタート

—【編集部】社会人時代はというと?

就職したのがアポロリースという仙台に本社があるノンバンク系の会社です。でも、勤務地は大阪でした。「オマエ神戸出身だったな? よし、大阪へ行け!」みたいな、そんな感じですよ。お金をよその会社へ借す会社なので「借すお金を銀行から借りてくる」仕事を私は担当していました。

最初についた上司が小野さんという方で、僕の人生に影響を与えた3人のうちの1人です。僕は働き始めて不満を持っていたんです。なまじ大学生の時に稼いでいたので、新入社員の時の給料のほうが安かったし、大阪なので親戚はいるけれど友だちとは離れてしまったし、つまらないなと思っていたのが顔に出ていたのかもしれません。小野さんに「君は将来、うちの会社でどうなりたい?」と言われました。そのころは給料に不満があったので、思わず出た言葉が「年収1千万になりたいです」でした。

僕は昭和59年に大学に入って、働き始めた年に平成に変わっています。世の中バブル期ですよね。景気が良いと思うかもしれませんが、当時は1千万プレイヤーなんてそんなにいなかったんです。そこで1千万と言ったのです。そうしたら小野さんがニヤリと笑って「よく言った。でもな、俺は課長だけどいくらもらってるか知っているか?」と聞いてきました。「わかりませんね……課長だから600~700万円くらいはもらっているのですか?」と答えると「450万だ」とニカーっと笑っていうのです。これは厳しいなと。40歳くらいの方だったのですが、それで年収450万円。ボーナスとか計算するとわからないけど、ざっくり言って課長の月収が30万円代くらいとして、それならペーペーの俺は15万4千円でも、そういうものかと思いました。「いやぁ、これは相当に出世しないと1千万円いかないな」と痛感しました。

小野さんからは、うちの会社だと役員になってようやく1千万円だから、1千万円欲しかったら役員めざせと言われました。なるほど、じゃあ役員になるためにはどうすればいいか考えたら、めちゃめちゃ働いて、めちゃめちゃ成果をだして、ドンドン出世すればいいじゃないかと思いました。そういうところ、私はけっこうシンプルなんですよ(笑)。

そこからはめちゃくちゃ働きましたよ。それで仕事の成績もグーンと伸びて、すぐに東京本社へ転勤だと言われました。これが就職して1年たっていないころです。東京へ行くと仕事のボリュームが増えて、付き合う銀行も日本興業銀行など、当時の名だたる銀行ばかり。いきなりそういうところの担当になって、お金を借りに行っていました。

どれくらい借りていたかというと、僕が入社した当時の“借金”の額が2,700億円でした。ちなみに、最後は9,800億円にまでなっていました。もちろん個人で借りたわけじゃないですよ(笑)、会社として借りた時の担当が僕だということです。

そういった感じで、どんどん事業が拡大し、26歳くらいの時には年上を含めて部下を7人持たされました。なぜかというと、同期の中でダントツで成績が良かったからです。成績が良かった理由は、1千万プレイヤーになるぞ、役員になるぞという野望があったからですね。それでめちゃくちゃに働いていました。1人ブラック企業状態で、長時間労働を平気でやっていました。

人並みはずれた努力が
疑惑の対象に

—【編集部】実際、どんなスケジュールで働かれていたのでしょうか?

社員寮から朝早くに出て、小田急線の始発に乗ります。ペーペーなのでタクシー代は出ませんから、終電の時間まで働いて寮へ帰っていました。深夜1時くらいですね。始発は5時くらいです。これを土日も関係なく4ヶ月やっていました。ある日、総務部長に呼ばれてビルの警備室から「同じ人が早朝にきて深夜に帰り、土日も関係なく来ている。おたく、金融の会社でしょ? なんか不正されてるんじゃないですか……? あの人(池本)はおかしいですよ」とクレームが来たらしいんです。それで、どういうことかと会社から“取り調べ”を受けました。

僕の上司の課長もいっしょに呼ばれて、2人でこっぴどく怒られましたね。上司は部下の管理不行き届きと怒られ、僕はなにかの疑いがあるのではないかと机の中まで調べられました。当然、何も出てきやしませんけれどね。僕は自分のモチベーションのためだけにやっていましたが、勘違いされて「残業代を稼ぐためにやっているだろう」と言われました。

確かに当時の残業代は給料をはるかに上回っていました。でも、残業代で稼ごうという気はサラサラなく……でも、それを疑われてしまい、悔しかった。人がせっかくめちゃくちゃ働いて、部下を7人も抱えて、部下が終わらない仕事を全部引き受けていたから残業が多かったのに、課長は何も手伝わず先に帰ってる。そんな人に「オマエは残業代が欲しいだけだろう」と言われたので、「何を言っているのだ」と内心強く反発しましたね。

新しい上司の
中身は米国人

—【編集部】なるほどですね。ただ、そこで辞めなかった。続けた理由というのは?

そうこうしているうちにバブルが崩壊しまして……。お金を貸していた会社がハワイのホテルを買っていたのですが、その会社から「おカネが返せなくなりました」と言われました。いかにもバブル末期ににありそうな話でしょ? そうなると、“物納”といって、お金の代わりハワイのホテルを返してもらうことで決着しました。でも、ホテルを放っておくこともできない。誰かが行って管理をしなければならず「池本、お前が行け」となりました。

ここで僕のビジネス人生の、第2の転機となる方に出会いました。今でもお付き合いがある、濱崎さんという方です。この方は日本ペプシコーラ販売がペプシの直系だったときの日本人のトップの方です。「40代で給料4,000万、経費は使い放題だったよ」という豪快な話を聞かされました。彼はニューヨーク州立大学を出ていて、要するに中身がアメリカ人なのですよ。完璧な英語をしゃべるし、アメリカ仕込みのマーケティングを勉強して、アメリカの広告代理店で実戦経験を積んでいる。僕はこの方にマーケティングを教わったのです。アメリカ流のビジネスの仕方やモノの考え方も、たくさん教わりました。

それまでは金融の会社だったので、ノンバンクとは言えいろいろな銀行から出向の人が来ており、社内文化は“銀行的”でした。案件も借金もすべて銀行と仲良くすることで成り立つ会社でしたしね。「シャツは白! 部下は上司が帰宅するまで机を離れるな! 夏でも上着を着ろ! 靴は黒だ!」といった暗黙のルールがありました。そこで育った僕が、中身が米国人の濱崎さんとハワイのオフィスで2人きりで働きはじめた訳ですからカルチャーショックがたくさんありました。

ある日、僕は自分の仕事が終わって、濱崎さんの仕事が終わるのをヒマつぶしをしながら待っていました。それを見た濱崎さんが、僕に向かって「おい、お前なにをやっているんだ?」と。「濱崎さんが仕事をされているから、待っているのですが」と答えたら「お前はバカか」と。「前はそう言われていたのか? 俺のところではそういうの関係ないから。仕事が終わったら帰って良いし、俺のことを待っている必要はない。今日は仕事がないと思ったら会社にこなくていいぞ」と言われました。

もう、日本企業の常識とは全然ちがうじゃないですか。僕は驚いて「会社って、そどれでいいの?」って思いましたね。濱崎さんは「来客予定がなかったらスーツも着てこなくて良い、Tシャツで来い」と言ってたし、実際に本人もデニムにポロシャツでした。僕も「いいのかな」と思いながら段々そうなっていきました。最初は2人で現地のホテルへ行って指示をしていたのですが、そのうち1人でいく機会も増えてきて、それなりに僕の英語も通用するようになりました。

今でも覚えているんですが、最初に1人でハワイの現場に行く日にオフィスを出ようとしたら、濱崎さんが「池本、Believe Yourself」と声をかけてくれました。瞬間的に意味がわからず「はい」と返事しながら会社を出ましたが、言われたことをよくよく思い出すと、涙がでてきました。「お前はもう1人でできる。自分を信じてやれよ」と言ってくれた。すごく嬉しかったですね。こういった環境で3年間働いて、濱崎さんにいろいろなことを教えていただきました。自分の中で仕事人の基礎となる時期ですね。

ハワイのホテルを売却した後は、本社に戻されましたが、その頃は日本の事業はうまくいかなくなっていて、ほぼ銀行管理下の会社になっていました。仕事も借したお金を回収するくらい。一番お金を借したところで、3000億円。それを1千万ずつでも返してもらうという、いつになったら終わるのかという状況です。

転職、起業、そして社長に

—【編集部】それで、転職を決意されたわけですね。

そうです。それで転職してソニー生命へ行きました。この時が31歳、1千万円プレイヤーになりました。ここでは代理店を開拓し、教育をして保険を売ってもらう仕事をしていました。ここで人にものを教えて教育して、できるように変化させるということが好きだというのに気付きました。保険の売り方を教えて、売れない人を売れるようにしてあげることにやりがいを感じました。

でも、もともとずっと起業はしたかったので、3年で辞めて会社を作りました。いまでいう、コーチングだとか、研修ビジネスのような感じですね。1人で始めて、そこそこ食えてはいましたが、あっという間に新規開拓先が無くなりました。

厳しくなったなと思っているうちに、友だちの紹介で知り合った株式会社ドクターシーラボの城野元オーナー(城野親徳氏)から声がかかったのです。「いま、なにやっているの?」と電話がありました。自分の会社をやっていて、とても忙しくて絶好調ですと答えると「うちの会社もみてもらいたい。今週、会える?」と言われました。

この時は強がって「絶好調」と言いましたが、実際はクライアントが1社もありませんでしたし、仕事も無く、ほぼ失業状態。自宅で1日パジャマで過ごしていました。小学生、幼稚園の子どもに「なにをやっての」と言われていましたからね(苦笑)。その状態なので、今週会えるかと聞かれたら喜んですっ飛んで行けばいいのに「今週が予定が一杯だから、来週ならいけます」と答えました。恥ずかしい話ですが、見栄を張っていたんです。

そんな感じで城野さんに会って1週間後には、コンサルとして働くことになりました。その前に化粧品通販の役員をやっていたことがあるので、この会社はうまくいくなと感じましたね。業績も伸ばせるし、自分の実績にもなるし、これはいいなと思って一生懸命働きました。他のお客さんがいるから忙しいと言っている割には毎日ドクターシーラボに来ているという状態です(笑)。

1ヶ月たったら、また城野元オーナーに呼ばれ「この1ヶ月間、業績すごく伸びましたね」と言われました。僕は「まだまだ改善できるところがありますから、もっと伸ばせますよ」と答えると、いっそ社長をやってくれと言われました。コンサルで入って1ヶ月です。そこでよせばいいのに、また「考えさせてください」と言ったのです。

その後、ビルの非常階段を出て、ゆっくりとドアを閉めて、だれにも聞こえないところで「やったー! これで食える」と(笑)。失業状態から社長になるわけですから、ありがたい話です。家内の親父さんに金を借りに行こうとまで考えるくらい追い詰められていました。それが、社長になれて、しかも給料は100万と言われました。1千万プレイヤーに戻れた、良かったと思いました。

同時に自分が変なプライドを持っていたことに気づいて、「ああ、なんだ、自分は小さいな」と思いました。もう二度と、自分の変なプライドで嘘をついたり隠したりしないで、生きていこうと決めました。

ソファの肘掛けが 変形した理由

—【編集部】ここでの働き方もかなりモーレツだったそうですが……?

モーレツと言うかどうかはわかりませんが(笑)、そこから、もう一度めちゃくちゃ働いてこの会社をとんでもなくいい会社にしようと思いました。当時は売上3億円しかなかったので、最低でも50億円にしたいなと考えました。「やるぞ」と決め、年間で56日間会社に泊まりました。ASKULで買った1万円のソファの肘掛けが僕の頭の形に変形するくらい会社で寝ていましたよ。

システムのリプレイス、広告、商品開発、採用教育、販売促進、DMなどのデザインを考え、さらに人事労務などもすべてやっていました。人がいなかったのです。そうやって働いて、僕が社長になって数ヶ月で4千万円くらいの月商にしました。一気に業績が伸びたので、採用教育が間に合うわけがありません。間に合わない分は全部自分でやるしかないのです。

特にシステム開発が大変で、使っていたシステムがボリュームに耐えられず、ちゃんとしたメーカーのシステムを入れないともたないという状況になっていました。NECのシステムを入れることになりましたが、日常業務が終わってからじゃないと彼らは手をつけられないので、夜から作業を始めます。仕様書を作って確認して、全部固めてからという作業だと1年かかってしまいます。それでは間に合わない。

なんとか半年でやるためにショートカットできるとしたら、ドキュメント類の作成を省くくらいしかない。要件定義はやらなくていい、その代わり俺がその場で指示を出すので半年でやってくれとコミットしました。その分値段も安くできます。それがあったので、僕は会社にいないとならなかったのです。「返品のときは、こういう仕様にして」などとその場で指示をしました。僕自身が“仕様書”代わりというわけです。会社のことを全般分かっている唯一の人が僕なので、やるしかなかったわけです。結果、5ヶ月で新しいシステムができあがりました。多分、それがなかったら今のドクターシーラボは無いです。

社長をやって4年で120億円までいってIPOをしました。そこで「そろそろ社長を代わってもらえますか?」と言われたので退職することにしました。見たことないようなお金を手に入れて、当時流行っていたアーリーリタイアメントができるようになりました。

正直「これはいいわ」と思いましたね(笑)。もう働かなくてもいいと、実際にリタイアして別荘を買ったり、いい車を買ったり。仕事はしなくてよいので、また1日パジャマで家で過ごしていました。飲みや遊びに友だちを誘いますが、平日だからダメだと断られてしまいます。要は、遊んでくれるヤツがいないのですね。意外とつまらないと思いました。4ヶ月で飽きまして「こんなことをやっていたらバカになってしまうぞ」と思いました。そこで、全て一度忘れて、働こうとなりました。

かつてソニー生命に転職したときに思ったように、やっぱり人に物事を教えて、成長していく姿を見るのが好きなのだとあらためて気づきました。なので、下手にお金を持っているとまたサボろうとするでしょ?だから、自分の手元に200〜300万円だけ残して、残りはどこかに預けて死ぬ間際になったら思い出すことにしました。

IT企業で“飛び込み社長”になる

—【編集部】アーリーリタイアは早々に終了ということですか(笑)。その後は?

そこから、もう一度働くにあたって「自分に足りないモノは何か?」と考えました。当時、ITブームがきていたのでインターネットの知識と技術を使った会社を経営したいと思っていました。しかし、同時にその知識が足りないともわかっていました。そんなタイミングで運良く、日本アジア投資というお付き合いのあった会社から、役員を探しているネットの会社の紹介があったのです。社長はどんな人か知りたいなと思って、とりあえず一度会いに行くことにしました。そこが株式会社ネットプライスです。

社長は佐藤輝英さんという当時20代の方でした。彼、今はシンガポールに住んで投資家として有名になっていますね。昔からめちゃくちゃイイやつで、頭も性格もいいし、バリバリ働くし、人気もあってネットのこともよくわかっています。SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)出身なので、周りにいる多くの同級生や先輩後輩は皆が優秀でした。僕はそのような人たちに囲まれて働けるのはすごく勉強になると思い、ネットプライスで働こうと決めました。初めて面談したその日に、即決でした。

最初は取締役ではなく執行役員と言われましたが「課長でも係長でも、なんでも良いよ」と受けました。その次の株主総会で取締役になり、また次の時に社長になっています。ネットプライスの社長兼ホールディングの副社長という形です。

上場後、業績が少し悪化しまして、上場一発目の決算発表なのに赤字を叩いてしまい、社長の僕が責任をとらないとならなくなりました。僕の前にいろいろあったのですが、その時の社長は僕ですし、佐藤さんを前に出すわけにもいきません。まぁ、カッコよく言うと泥をかぶる感じで……事態を収拾させました。その後、業績もまた上向きはじめたので、ある種のけじめとして退任しました。その後、今の株式会社パジャ・ポスをスタートさせました。

目的、スピード、そして愛されること

—【編集部】いろいろな会社の人と関わるにあたり、さまざまなバックグランド、世代の人と一緒に働くことになると思います。また、会社ごとの作法の違い、特色などもあります。そういった中で、仕事をされるにあたり、気をつけていることやスムーズに仕事をするコツなどがあれば教えてください。

—【池本】まず大事なことは、目的をはっきりすることですね。この仕事をやって自分たちがどうなりたいのか、なにをやろうとしているのかを明確にしなければいけない。例えば、目標として「売上100億円にするぞ」というのがあって、それが自分たちにとって何の意味があるのかというのを常に考えています。

次に一緒に働いている人たちの人生においてどんなインパクトがあるかというのを考えています。それが腑に落ちていないと踏ん張りが効きません。

ライフワークバランスは確かに大事だし、深夜労働までしてはダメです。でも、ちょっとの苦労で不平不満が出てしまうなら、それは「仕事をやりとげて、どう進化、成長できるか?」という目的意識が抜け落ちているからなんですね。

つらいかもしれないし、バランスは少々崩れるかもしれないけれど、やり遂げたときに「自分がこうなれる」という姿に魅力を感じられれば、やる価値がある。残業3時間することと、どっちが価値があると思うと、だいたいは仕事に打ち込んだほうが価値があります。プライベート3時間のほうが価値があると思うかもしれませんが、どうせロクなことしかしないでしょ?(笑)。「見たいドラマが」「ゲームがやりたくて」「飲みに行きたくて」って、それも、まぁ、わかりますが、人生においてどんなインパクトがありますかというと、ほぼ無いでしょ?

ゲームのベストセラー作家になりたくてゲームをやるならわかります。ただプレイするだけというのは、キツい言い方をすると、時間の浪費でしかありません。それなら、もっと仕事に打ち込んで成果を出したほうが自分の人生充実しない? と僕は思うのです。これが目的がはっきりしているか、していないかという違いです。

次に大事なことは、行動や判断のスピードです。これを言う経営者の方は多いと思いますが、僕はとくに行動と判断のスピードを重視します。そして、行動や判断のスピードを上げるために、大量のインプットが必要になります。たくさんのことを知っているので、判断をしやすくなるし、間違わなくなる。間違った判断をしたとしても、たくさん行動をするので、早く修正がききます。決めたらすぐ行動ができて、間違えたと思ったらやり直せばいい。たくさんインプットしてアウトプット(行動)する。なんらかの結果をもとに、次をやる。ここの判断と、行動のスピードが大事です。

目的、スピード、もう1つはやはり人から愛されるということだと思います。何か“昭和的”な話かもしれませんが、どんなに優れていて数字が読めて、仕事ができる人でも、人から嫌われると応援してもらえません。そうなると、でかい仕事は絶対にできません。目的があって一緒にやらないかといっても「オマエが嫌いだから、やらないという」のが人間にはありますからね。大きい仕事をする人は仲間を集められています。いっぱい優秀な人が集まって、はじめて大きな事業は成り立っています。そういう人たちを惹きつけられる人ではないと、どんなに高いスキルをもっていても活かすことができません。

—【編集部】『いまどき部下を動かす39のしかけ』で書かれている「完了条件」についての合意や「数値化」「文書化」は部下だけでなく、取引先やフリーランスがクライアントとやりとりする際にも役立つ考え方だと思いました。ただし、社内の上司と部下とは関係性が違うため「そっくりそのまま応用」とは行かないとも思います。「いまどき部下を動かす~」の考え方をその他の関係性に活かすとしたら、どのようなアドバイスがありますでしょうか?

—【池本】これは割とカンタンな話で、上司と部下の関係だと、与えられたチームだったりペアだったりしますが、取引関係でも同じことなのですよね。大きくいうと単なる人間関係です。相手の方が雇用された自社の社員であろうが、外部の方であろうが、やらなければならないのは目的の統一なのです。仕事を一緒にやることで、何を得ようかというのが一致すれば、そこに向かって動いていけばいいことです。やる仕事の内容や、やり方が違うかもしれませんが、要はこのメンバー、このペアでこれをやるというのを一致できるか。社外の方にも、社内の人にも、部下でも、そうじゃなくても、同じようにすればよいと思います。

—【編集部】私たちの『ザ・キーパーソン』は会社やコミュニティにポジティブなインパクトを与える仕事をしたいと思っている方、組織のキーになる働きかたをしたいと思っている人にインスピレーションを提供することを目指すインタビューメディアです。そのようなキーパーソンを目指す人に、アドバイスやコメントがあればお願いします

—【池本】少子化だ、高齢化だと、なんだかんだいいますが、諸外国、ヨーロッパのもっと人口の少ない国はいっぱいあるわけですよ。2050年だかに、人口が8000万や7500万になると言っていますが、それ以下の国で元気な国はいっぱいあります。もちろん人口構成はちがいますけれどね。海外に目線をもつのも重要ですが、国内にもまだまだ仕事があるし、仕事があるというのは困っている人がたくさんいるということです。キーパーソンになろうと思っている人たちにはその意識を持ち続けてほしい。

そして、過去の延長上とか、既存の考え方や古い習慣にとらわれず、新しいものを生み出し、世の中の困っている人を救うというのは価値のある仕事をしましょう。それが、インパクトをもたらせているということです。ぜひ、そういう志を持つ人たちに活躍してもらいたいです。

—【編集部】わかりました。今日はありがとうございました!

—【池本】こちらこそ、ありがとうございました。がんばってください。

Company
企業 株式会社パジャ・ポス
所在 東京都渋谷区恵比寿1丁目24-15
業種 コンサルティング
URL https://www.ikemotokatsuyuki.net/



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