コンプレックスと戦い抜いて揺るぎない自信をつかめ『バチェロレッテ・ジャパン』黄皓が語る後悔しない生き方
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氏名 | 黄皓 |
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肩書 | ミラーフィット株式会社 代表 |
出生 | 1986年 |
略歴 | 中国湖南省に生まれ、父親の仕事の関係で日本で育つ。早稲田大学を卒業後、三菱商事に就職しメキシコ勤務を経験し、独立。Amazonプライムの人気番組『バチェロレッテ』に参加した際には“自信家”のキャラクターが話題に。上海で貿易会社を、日本でパーソナル・ジムとオンライン・フィットネス・サービスの会社を経営する実業家でもある。 |
婚活サバイバル番組「バチェロレッテ・ジャパン」に参加し、“イケメン”としてだけでなく、自信満々な立ち振る舞いでも注目を集めた黄皓(コウコウ)さん。世間的にはこの番組での印象が強いかもしれませんが、中国と日本に複数の会社をもつ経営者でもあります。今回は、そんな彼に生い立ちやいま取り組んでいるビジネスなどについて深く話を聞いてきました。
※ 本インタビューは緊急事態宣言が発出されていない時期に、感染症対策を行なった上で実施しています。
強いハートは父から受け継いだ
—【聞き手:楯雅平、以下:楯】私たち「ザ・キーパーソン」はビジネスやアート、スポーツなどの第一線で挑戦をしている方々にお会いして、どのような生き方をしてきたのかを聞くインタビュー・メディアです。今日はじっくりお話をおうかがいできればと思いますので、よろしくお願いいたします。
【話し手:黄皓(敬称略)】よろしくお願いします。
—【楯】さっそくですが、お生まれは中国だそうですね? 地元のことについて、教えていただけますか?
私が生まれ育ったのは中国の湖南省です。国を南北に分けると、南側に位置する内陸の都市で、日本の方にはあまり馴染みがない場所かもしれませんね。でも、強い産業はいくつもあって、例えば鉄道や自動車が有名です。なので、自動車業界に長い人だとご存知だったりしますね。
—【楯】毛沢東さんの生まれた場所としても有名ですね。あとは、激辛料理!
—【黄】唐辛子の産地なので、唐辛子まみれの料理がたくさんあります(笑)。「湘菜(シアンツァイ・Xiāng cài)といって、数ある中華料理の中でも有名なジャンルですよ。今日はちょっとお腹の調子が悪いので、湖南料理の辛さを思い出すだけで腹痛になりそうなくらい(笑)……本当に辛い料理です。
—【楯】湖南ではどのような子供時代を過ごされたのですか?
—【黄】子供のころはボロい団地に住んでいました。家の周りとかも、一応は舗装道路でしたけれど道はデコボコみたいな、そういう景色をいまでも覚えています。
あとは、ドッヂボールに熱中していましたね。日本では空気を入れたボールを投げ合いますよね?でも、当時の僕らのところでは米が入った袋を投げ合っていました。懐かしいなぁ……「バンッ」ってキャッチすると、白い粉が舞い上がるような、そういう袋でずっと遊んでいましたね。
—【楯】学業は、どうでしたか?
—【黄】子供のころは本当にフツーでしたね。勉強ができない方ではない、できる方でもない、真ん中あたりです。勉強ができなくて怒られたことはないけれど、褒められた記憶もあまりないですね(笑)
—【楯】お父様が経営者だったそうですが?
—【黄】はい。ただ、僕が小さかったころの父は、まだ自分の会社を持っていませんでした。僕が3歳のころに父と母は日本に出稼ぎに行って中華料理屋の皿洗いをしながら生計を立てて、その後は建設会社に勤めていたのです。
30年以上前ですが、当時の日本で流行っていたディスコというか、クラブ的な施設を中国の北京や上海にもってくるというビジネスをしていた会社だったそうです。残念ながら、その会社は倒産してしまって、父はその後に起業しました。
父は何回も起業をしているんですが、失敗も繰り返していました。僕が覚えているだけでも割り箸製造、ゴミ回収、ワイシャツ販売、などいろいろやってはいたのですけれど、ほとんどうまくくいっていなかったみたいです。父は理系の賢い人で理路整然と話すようなタイプですが、商才はなかったようですね(笑)。なぜか、ビジネスとなると「エイヤッ」とドンブリ勘定でやるところがあったし、当たる事業を見極めるのもそれほどうまくありませんでした。子供の僕が見ても「それ、ビジネスになるの?」みたいなことをやっていましたからね(笑)。
もともと、裕福な家庭ではなかったので、父の会社が倒産しても急に貧しくなったりはしませんでしたが、子供でも会社がだめになるのは大変なことだとはわかっていたので、父のことを心が強い人だと思っていました。普通は、自分の会社が倒産したら落ち込むじゃないですか? でも、父は「さて、次は何をやるか?」みたいな感じでけろっとしていました。
でも、父にはそれを補ってなお余りあるバイタリティーがありました。あとは、父の周りには人が集まってきて、事業を手伝ってくれる。だから、何度失敗しても立ち直るし、きっと大丈夫だろうと自分も周りも思える。それを見ていた僕ら家族も「きっと父はすごい人なんだろう」という感じで、信頼していました。
僕自身も父のそういった気質を受け継いでいるところがあって、メンタルは強い方だと思います。周りから見て負けてでも「自分が負けを認めなければ負けではない」と思っていますし。それに、仮に倒産したとしても負けじゃない。それを次の何かに活かせれば、そして成功できれば勝ちです。僕のそういった考えは父から受け継いだものです。
話を子供時代に戻すと……家庭の経済状況はうまくいったりいかなかったりという感じで、僕は3歳くらいのころからじぃじ、祖父ですね、と暮らしていたのですけれど、日本にいる両親に少し余裕がでると、東京に呼び寄せられて半年くらい日本の小学校に通ったりしていました。その後、本格的に日本で暮らし始めたのが15、6歳のころだったと思います。
思春期に受けたいじめ、意外な転機
—【楯】小さいころから中国と日本を行き来されていたのなら、カルチャーショックは体験していないかもしれませんが、日本の学校生活はいかがでしたか?
—【黄】まぁ、それほど激しくはありませんが、いじめみたいなことを受けた記憶はありますね。
僕は外見がイケてない子だったので……髪型が周りとちがったし、シャツはズボンにイン、しかもハイウエスト、みたいなまじめなタイプでした。なので、そういう見た目をイジられたりしましたね。
高校に入ってからは「デビュー」という言い方が正しいかどうかわかりませんが(笑)、外見でいじめられることはなくなり、どちらかというとモテる方になっていきました。きっかけはささいなことで、髪型に気を使うようになったことでした。前髪を下ろしていて“陰キャ”っぽかったのが、髪の毛をあげたら「お前イケメンじゃん」みたいに言ってもらえた、ということが変化のきっかけでしたね。恋愛関係のもつれで仲の良かった友だちに仲間はずれにされたり、陰口を言われたりとか、そういう人間関係の悩みはありましたが、それを除けは楽しい学校生活でした。
高校生のときはずっと一生懸命勉強していて、成績は良かったです。私は推薦入学で高校に入ったのですが入学先がいわゆる進学校だったので、中学の先生に「お前があそこに入学できたのはとても運がいい。でも、いまの学力だと毎日勉強しないと置いていかれる」と言われました。僕はそのアドバイスをまじめに聞いて、本当に毎日勉強するようにしていました。そのおかげもあって、1年生の時からテスト点数が高くて良いスタートが切れました。あとは好循環というか、学力テストでも「自分はトップ10にはいないとおかしい」という感覚が芽生えて、よい成績をキープできた感じです。「毎日勉強しろ」といってくれた先生に本当に感謝です。
大学受験に関していうと……英語と世界史は模試の全国ランキングでトップの方でしたが、現代文が苦手でした。それに加えて5教科となるとなかなか厳しいものがあるので、私立に絞っては早稲田と慶應を受けました。それで、慶応は補欠だったのですが、早稲田は無事に受かってそのまま進学しました。
—【楯】大学生「デビュー」はいかがでしたか?(笑)
—【黄】陽キャまっしぐらです(笑)。高校のころから少しずつ「イケメン」みたいに言われていたのですが、大学ではもっと……モテたので(笑)。それで、勉強はすごくおろそかにしていましたね(爆笑)。
—【楯】なるほど(笑)。では、ここまでが前半戦ということで、次はちょっと雰囲気を変えた質問をさせていただきましょう。
黄皓に聞く! 10問10答
ちょっと雰囲気を変えて、「10問10答」をさせていただきます。私が質問を投げますので、3秒以内にお答えください。では、いきましょう!
Q. コーヒー、紅茶、お茶、どれが好き?
コーヒーです。
Q. 現実派? 夢見がち?
現実派ですね。
Q. インタビューは好き? 嫌い?
好きです。
Q. 都会が好きですか? 田舎が好きですか?
都会。
Q. 一番よく使うSNSは?
いまはインスタです、変わるかもしれないけど。
Q. 時間が欲しいですか? お金が欲しいですか?
時間です。
Q. 好きな食べものは最初に食べる? 最後に食べる?
うーん、最後ですね。
Q. 自分のことは好き? 嫌い?
好き(即答)。
Q. 犬派? 猫派?
犬派です。
Q. 今日が地球最後の日。何をする?
両親に会いに行きます。
—【黄】うちの社員が笑いながらこっちを見ているから、やりにくかったです(爆笑)。
—【楯】(笑)ありがとうございました。では、ここからは後半戦ということで、新社会人時代から起業までのお話を聞かせてください。
人生は一度きり
—【楯】大学を卒業したあとは、商社に入られたそうですね。
—【黄】はい。三菱商事という大手総合商社に就職しました。理由は単純で、グローバルな仕事をしたかったからです。それに、商社って英語を使って、海外で働いて、っていうカッコいいイメージがあるじゃないですか(笑)。
それで、自動車部品の担当になって、メキシコへ赴任しました。望み通り海外で働けましたし、欧米の人たちと英語でビジネスをすることもありましたが、ちょっと思っていたのと違うことろもありました。仕事の大半は日系企業の文化と日本の商習慣にどっぷり浸かって、その制限と制約の中で働かなければならなかったんですよね。
名古屋にある工業地帯にいるのか、メキシコにある工業地帯にいるのか、という違いはあれどやっていることはほぼ同じで、世界を相手にしたビジネスをしているかというと、まぁ、微妙な面はありました。なので、しばらくモヤモヤしながら働いていたのですが……30歳前後って男性にとって転機になりやすいタイミングだったりするじゃいないですか? 僕もその時期を迎えて「この会社で一生働き続けるのが自分にとって本当にベストなのか?」と考え始めて、独立やMBAの取得、転職などいろいろ考えていました。
ちょうど、そのタイミングで父が体調を崩してしまい、倒れてしまったのです。それまで、父は「お前が会社を継いでも、継がなくてもいい」というふうに言っていましたが、体調を崩した後に会ったら「俺の会社を継いでほしい。大した会社ではないかもしれないが、お前が活躍できる城を、小さい国を守り続けてきたつもりだ」と言われました。これにはグッときました。
とはいえ、すぐ会社を辞めることもできず、悩みを抱えたままいったんメキシコに戻りました。300平米くらいの大きな家に住んでいて、待遇に不満はないし、嫌いな人が職場にいるわけでもありませんでした。いまでもよい会社だったと思っています。けれど自分の人生の大半を会社のために働いてお金に変えていく生き方がどうしてもしっくりきませんでした。
その時、偶然YouTubeで出会った曲がAviciiの『The Nights』という曲でした。
—【黄】歌詞がとても素敵で、少年が父親に「いつまでも記憶に残るような人生を生きなさい」と言われるストーリーです。その歌が、青年が世界中を旅する映像と一緒に流れるわけですが、それが当時の自分にすごく響くものがありました。この曲を聴いて。自分の中で何か吹っ切れて、翌日に辞表を出しました。
—【楯】“Live the life you will remember”というあの歌詞ですね。いい曲ですね。
—【黄】いい曲ですね。いまだに、独立で悩んでいる人に相談を受けると、この曲の話をしますよ。
その後、もちろんちゃんと引き継ぎをして会社を辞め、父の会社に入りました。おもな事業は物流の仲介業で、400社くらいと取引がありました。自分は商社の経験があったので、仕事にはすぐに慣れることができました。
会社の事業そのものもうまくいっていたし、他の人が優秀かつ経験豊富なので、私が「2代目として革命を起こす」みたいな必要はありませんでした。だから、ちょっと時間を持て余し始めたのですよね。それで、何か自分でも新しいをやってみようと思い立ち、2016年の9月にパーソナルジムを始めました。
見た目が変われば、人生は変わる
—【楯】これまでの経歴からすると、ジムというのは少し意外な気もしますが、その領域で起業された理由は?
—【黄】メキシコから帰ってきた後に日本の状況を観察していたら、当時、大きなブームになっていたものが3つありました。ライザップ、マッチングアプリ、相席屋です。自分がメキシコに行く前はどれも見た記憶がなかったのに、戻ってきたらすごいブームでした。それらを一通り試してみて、自分がやる事業として考えたときにしっくりきたのがフィットネスだったんですよね。
子供のころにいじめられていた自分が髪型を変えたことがきっかけて周りの評価が変わったという体験があるので、体型も含めて人が変われるきっかけをつくれたらいいな、という思いが根本です。まぁ、あと、メキシコから帰ってきて、気づいたら自分がとても太っていまして(笑)……だから、トレーニングに興味があったというのもありますね。
ちょっと話がメキシコに戻りますけれど、当時は毎日ものすごく忙しくて、車で往復5〜6時間運転して、その間も車を停めてPC作業をして、家についたら疲弊しきって寝る、みたいなくり返しでした。でも、そんな中でどんなに疲れていても、旅の計画を立てたりとか引越し先を探したりとか、そういう楽しい作業はいくらでもできました。それをわかっていたので、独立後は自分がワクワクできることを仕事にしようと思っていました。そうしたら、いくらでも働けますからね。
そうやって選んだ事業が「ヒューマン・プロデュース・サロン」でした。ジムでのパーソナル・トレーニングにヘアメイクやファッション・コーディネートのサービスを組み合わせる内容です。人間って、裸で外を歩くわけじゃないので、痩せるだけじゃ不十分です。だから、私たちのジムではお客様が痩せて、髪型や服も変えて、自分に自信がもてるようになる、というところをゴールにしています。
BESTA:ヒューマン・プロデュース・サロン
あと、いま思っても、当時の自分は賢かったと思うんですが(笑)、マッチングアプリが流行った影響で、自分の画像をインターネットに投稿する人がものすごく増えると気づいたのですよね。SNSやマッチングアプリがない時代、一般人は日常的に顔をあわせる人たちにしか自分の外見はみられませんよね? でも、ネットに自分の写真をあげるようになって、しかもマッチングアプリみたいな見た目が重要な場所が出てくると、人々の外見に対するイメージは本当に大きく変わるわけです。だから、自分を磨きが必須になる時代が来るなと思ったのです。
もう言い訳はさせないよ
実際にジムを始めて、お客様の中から「体重が100kgを超えていた人が、60kgに痩せて彼女ができた」というようなうれしい事例もできてきて、会員も徐々に増えていきました。大手ジムの半額くらいなので評判は良かったのですが……でも、新規来店者の3〜4割しか定着しないんですよね。理由は値段でした。大手より安いとは言え、やっぱりまだ高いと感じる人も多かった。僕はそれがとても悔しかったですね。お客様が人生を変えるきっかけをみつけて、せっかく一歩を踏み出したのに、お金が理由で後戻りをしてしまうなんて、本当にもったいない。なんとかして、10人体験入会してくれたら7〜8人が続けてくれる方法はないかと考えました。
それで生まれたのが29,800円のサブスクリプション・プランです。
安くするというより、定額にするというのがポイントです。お客さんは会社員の人が多くて、副業ができない会社も多い。そうなると、収入はすぐにポンポン増えませんよね? だから、不安定な支出はとても嫌がられます。一方で、当時のジムやフィットネス業界におけるプライベートレッスンの相場は1回20,000円くらいでした。そうすると、トレーニングに行けば行くほど効果は出るけど、同時にお金も出ていってしまう状況になり、長続きしなくなるわけです。
それなら「定額にしてしまえばいいじゃないか」と。最初にこのアイディアが浮かんだ時は「29,800円で通い放題はやりすぎかな?」と思いましたし、正直ビジネスとして継続できる利益が残るか不安でした。でも、それってこちらの商売都合でしかないじゃないですか? お客さんからしたら、手ころな値段で通い放題のジムがある方がいいに決まっています。価値はあるのだから、まずやってみよう、検証してみようと決めてこの定額プランをスタートしました。
そうしたら、初月から70人くらい入会していただけて、すぐにトレーナーさんがフル稼働するレベルの大盛況でした。そこで、次に必要なのはサービスの質を下げずにコストを下げることです。ここが工夫しがいのあるところでして……一般的にパーソナル・トレーニグのジムは原価が高くなりがちです。なぜかというと、トレーナーさんの人件費の割合が高いからです。資格と専門技能を持つ事業の要になる人たちですから、お給料は下げられません。そこで、彼らの稼働と負担を減らしながら、提供するサービスの質を維持できるかを考えた結果、高級機器をたくさん取り入れることにしました。機械であれば、導入費用はかかりますが、その後のランニングコストはわずかな電気代とメンテナンス費用だけで済みますからね。
こうした優秀なトレーナーさんと高級マシンの組み合わせで質の高いサービスを安く提供できるようになり、いまではやっと採算が取れる、という状態になっています。エステに関しても同じで、日本の最大手チェーンと同じ機械を入れています。こういうところも、わかっているお客さんからすると安心感につながると思いますね。
あと、最近はミラーフィットという新しいオンラインサービスにも進出しています。これは「ジムに行きたいけれど、行けない」という人の“言い訳をなくそう”と思って始めました。「29,800円でも、まだ高い」「家から遠い」という人はいるわけで、そういう人たちに向けたサービスです。ミラーフィットは、入会金と配送料が税込33,000円、そのあと24カ月は月々税込14,278円で利用できますし、25ヶ月目以降は月額5,980円と格安です。
ミラーフィット
これがあれば、雨の日でも風の日でも、ステイホームな状況でもトレーニングできるますよね。だから、もう「トレーニングできない」なんて言わせないよ、ってね(笑)。
—【楯】そういう工夫があるわけですね。ところで、サブスクリプションのプライベートジムというビジネスを中国でやろうとは思わなかったのですか?
—【黄】15、16歳くらいのころに日本に来てから、自分が属するコミュニティはこちらにあると感じているし、起業をするときの仲間もふくめてこちらのほうが声をかけやすかったのですよね。あと、シンプルに僕は日本が好きで将来こちらに住みたいと思っているのはあります。あと、中国は確かにお金持ちは増えてはいますが、まだまだ自己研鑽、自己投資にお金をかける人はそれほど多くありません。不動産や株にはガンガン投資しますけど、トレーニングやエステとして自分に投資するという価値観は根付いていないと思います。実際、ライザップさんも中国では苦戦されていますし。
挫折したことはない
—【楯】ここまでお話をおうかがいしてきて、ほぼ順風満帆な起業家人生という感じですが、黄さんは挫折を味わったことはないのですか?
—【黄】ありません。苦労はしてきていると思いますが、挫折したことは一度もありません。
—【楯】苦労されたこととは、具体的にどんなことですか?
—【黄】一番難しいのは“人”ですね。会社をつくる中で、仲間やパートナーといっしょにやっていくわけですが、途中途中で人が辞めていくことがあります。僕は経営者で、自分自身が手足を動かすタイプではないので、現場のオペレーションはできる人に任せてきました。そのせいで、重要な人が抜けてしまうごとに事業がグラつくわけですよ。『ビジョナリー・カンパニー』という本の中でも「つくるべきは会社ではなくて組織である」という感じのことが出てくるのですが、僕はそれができていませんでした。
でも、そういった反省があったおかげで事業が属人的になりすぎないようにすることの重要性が理解できました。僕は経営者としてはドMな性格なので、ハードなトラブルとかしんどいことが好きです(笑)。トラブルが起きると「よし、成長のチャンスだ」と思います。人と揉めた時も「ここから挽回して、この人に信頼されるようになれば、誰にでも通用する男になれる」と思ってがんばります
コンプレックスがあるから努力する
—【楯】すごい自信ですね。そういうマインドはどうしたら身につけられるのでしょうか?
—【黄】コンプレックスをひとつひとつ乗り越えることじゃないですかね。僕は自信家だと言われることがあるけれど、たくさんコンプレックスを抱えていた人間です。人の目線とか、超気にしますよ(笑)。子供のころ……日本にいた時に忘れられない経験をしました。何かのセール会場の行列に家族で並んでいたのですが、列がUターンするところで前の人がスッと順番抜かしをしました。それを見ていた父が、ずっと並ばされている僕のことをかわいそうだと思ったからでしょうけれど、順番抜かしをした人の後をついて、一緒に順番抜かしをしてしまったのです。
その時、僕たちの後ろに並んでいた人が僕たちを指をさして何かを言っていたんです。何を言われたかは正確には覚えていなけれど……まちがいなくネガティブなことです。文字通り、後ろ指をさされるという経験をしました。それが子供のころの僕にとって強烈にしんどくて、あの時に感じたなんとも言えない感情はいまだに忘れられません。その経験があったから、子供心に「ちゃんとしよう、とにかく。ちゃんとしよう」と、そう思いました。
—【楯】では、最後に『キーパーソン』恒例の質問です。私たちは社会や会社にポジティブなインパクトを与えられる人をキーパーソンと定義していますが、そういった人になりたいと思っている人たちに向けてアドバイスやメッセージがあればお願いします。
—【黄】 いま、事業をやっている中で大事にしていることは、ワクワクすることをやる、ということです。真剣に独立を考えられている方に伝えたいのは「一度きりの人生を誰かのために生きるのではなく、自分のために生きようよ」、ということですね。ずっと会社の愚痴を言いなら同じところで働き続けるとか、意味不明ですよ。自分の人生が終わる時に、見切れないくらいの長さの走馬灯がまわるような(笑)、そういう濃い人生を生きたい、生きて欲しいと思います。
—【楯】わかりました。今日はプライベートなところまで含めて、深いお話を聞かせていただきありがとうございました。
—【黄】こちらこそ、ありがとうございました。
企業 | ミラーフィット株式会社 |
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所在 | 東京都渋谷区恵比寿西1-33-14 代官山齋金ビル |
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